これは真田家が存続するための苦渋の策といわれますが、その決断は、実は、息子たちが妻をもらうときすでになされていたのではないかと私は思います。そこに戦国の世の、小大名のしたたかさ、厳しさ、そして哀しさを感じるのです。
「犬伏の別れ」の後、昌幸と幸村は関ヶ原の戦いに向かう途中の徳川秀忠の軍から攻められました。兵力は相手が15倍でしたが、やはり撃退します。しかし、この第2次上田合戦後の関ヶ原では家康率いる東軍が勝利。しかし、昌幸と幸村は(徳川方の)信之の尽力もあって命はとられませんでした。代わりに高野山の麓の九度山に無期限の蟄居を命じられます。
その幸村が再び表舞台に立ったのはなんと14年後、大坂冬の陣でした。幸村は大坂城の南側に出城「真田丸」を築き、そこに徳川方を引きつけるだけ引きつけてから一斉射撃で撃退しました。上田時代からお手のものとしてきた「真田戦法」がここでも奏功したのです。苦杯を喫した家康は「信濃一国を与えよう」と提案し懐柔しようとしますが、幸村は拒否します。若き日に直江兼続によって「利よりも義」を教えられていたため、豊臣への忠誠を貫いたのです。
続く夏の陣でも、幸村は「真田戦法」によって徳川方を跳ね返します。そして、決戦の日、陣形が手薄だった家康の本陣を急襲し、家康が一時は首をとられる覚悟をするほど追いつめます。しかし、ぎりぎりのところで逃げられ、逆に自らが討ちとられてしまいます。
こうして幸村はドラマチックな人生の幕を閉じましたが、あの大徳川に何度も苦汁を舐めさせ、家康に肝を冷やさせたのが、険しい山間にルーツを持つ小さな一族の武将だということは、なんとも痛快ではありませんか。
◆松平定知(まつだいら・さだとも):1944年生まれ。早稲田大学卒業後、NHK入局。『19時ニュース』『その時歴史が動いた』など数々の看板番組を担当。2007年にNHKを退局し、現在は京都造形芸術大学教授を務める。武将の智略について考察した『謀る力』(小学館新書)など歴史についての著書多数。
撮影■太田真三
※週刊ポスト2016年1月15・22日号