学生とキャッチボールに興じているときだった。学生が投げたボールが逸れてワンバウンドしそうなときに限って、ちばてつや(77)は平然とした表情で何事か話しかける。まるで学生が「すいません!」と頭を下げる暇を与えないように。ワンバウンドなんて、なんてことないよ──。ちばの心の声が聞こえるようだった。この心遣い。
高級腕時計を付けているわけでも、高価な服を着ているわけでもない。マンガの金字塔『あしたのジョー』やゴルフマンガの傑作『あした天気になあれ』を描いた作者の佇まいは、拍子抜けしてしまうほど「普通の人」だった。
ちばは現在、文星芸術大学美術学部マンガ専攻・教授の肩書きも持つ。引き受けたきっかけは2005年の母親の死だった。幼少期を満州で過ごしたちばは敗戦後、命からがら日本へ引き揚げてきた。マンガ嫌いの母親だったが、ちばが17歳になりマンガで家計を支えるようになると、夜食をつくるなど全力で応援してくれた。
「貧しい中、僕と3人の弟を育てるために母は一番頑張った。その母が91歳のとき、急に亡くなって。もともと母に楽をさせたいと思って描いていたので、張りがなくなってボーッとしちゃった。母の故郷は、オファーをくれた文星芸術大学がある宇都宮なんです。何だか呼ばれているような気がしてね」
大学には、マンガを描くためのイロハを指導する教員たちは別にいる。ちばの役割は、もっぱら慰め役だという。
「自信を失っちゃって、教室に入れないなんて子もいる。だから、悩みを聞いてあげたり、グラウンドに引っぱり出して運動させたり。マンガを描く作業は孤独だし自信をなくすこともあるけど、ちょっとガマンして頑張れば、ひとりの力で何万人、何千万人という人を感動させられる素晴らしい仕事なんだよ。『マンガ』は『ガマン』だって」
一時代を築いたちばだが、55歳のとき、過労で心臓病と網膜剥離を患ってからは仕事を制限するようになった。読み切りやイラストの仕事は時々受けたが、連載は断ってきた。昨年、『ビッグコミック』で始まった『ひねもすのたり日記』は18年ぶりの連載だ。
「同じ枠で連載していた水木しげるさんが体調を崩されたというので、最初はピンチヒッターのつもりだった。連載は読者との『約束』。ちゃんと約束を守り続けられるか不安もありますが、今の僕にとってマンガを描くことは楽しくて仕方がないこと。
昔、週刊連載を複数抱えていたころは時間に追われ、何度か満足のいかないものを編集者に渡したこともある。でも今は隔週4ページなので、素描の段階でいったん机の中にしまって、2、3日発酵するのを待つ。それから読み直すと、どこを直せばいいのか見えてくる。本当に贅沢な時間を味わっています」
ちばの佇まいを見ていると、あれだけの名作を生みだしたエネルギーはどこから湧き出ていたのかと不思議になる。しかし、血気盛んな時代もあった。