事務所社長も、彼の本名は「川上伸一郎」であり、テレビやラジオで名乗っていた「ショーンK」はビジネスネーム、いわば「芸名」だと認めている。そう、すべて「芸」なのだ。
ドラマには3つの構成要素がある。役者、演出、そして脚本。ショーン氏の場合は役者として、また自己演出家としてある種の才覚があった。しかし、脚本についてはどうだろうか。ちょっとお粗末だったと言わざるをえないのでは。
コメンテーターとしての解説を何度聞いても、どこかの新聞に書いてあるようなことが多く、ハッとさせられるような独自性や鋭い批評性は感じとれなかった。この人にしかない視点とか自身の哲学による切り口といったものは、残念ながら少なかったのではないか。
脚本・セリフは凡庸。それでも人気者になったのはなぜか?
人が情報を受け取る時、何を感じ取っているだろうか。言葉の「意味」はさして比重が大きくない、という指摘をしたのは心理学者アルバート・メラビアンだ。相手に与える影響のうち言葉の内容は7%、声や表情などによる印象の方が格段に大きいという。もちろん全てのケースにあてはまる法則ではないとしても、私たちの想像以上に声や表情が威力を発揮している、ということだろう。
つまり、「この人の話をちょっと聞いてみよう」と視聴者の関心をかきたてたこと自体が、ショーン氏の芸人としてのウリであり演技の力だったのだ。
そもそも新聞も、当初は文字を「読む」のではなく「耳から伝える」スタイルから始まっている。人々は耳から出来事を知り、事件を生々しく想像したり感じとったりしてきたのだ。新聞売りは鈴を鳴らして人々を集めて記事の要所を読み上げて売ったし、家庭内では字を読める者が家族に読んできかせていた(『明治メディア考』)。
活字を読むスタイルが一般化し新聞が浸透しても、テレビのワイドショーや報道番組は無くならなかった。なぜだろうか?
情報とは、「情」を「報」じるものだから。活字を一人で黙読するだけではなく他人の口からもう一度、出来事について聞いてみたい、耳から情報を吟味したい。そんな「情」への欲求も、私たちは密かに持っているのでは。
ショーン氏の経歴詐称は許されることではないけれど、彼のコメント内容がどこかの新聞記事の焼き直しだったとしても、「耳から情報を伝える」という新聞当初の役割だけは演じ切れたのかもしれない。そう思わないと、やりきれない。