横田:森さんのご著書は、朝日新聞や読売新聞など、いくつかの書評でもすでに言及されていますが、小倉昌男が晩年、巨額の私財を投じてまで福祉活動を始めるに至った理由、また、今まで知られていなかった家庭に関する問題について、まるでミステリー小説のような構成で記されていく。その点に「上手いな」と感心しました。
1960年代ぐらいからアメリカで台頭してきた「リテラリー・ジャーナリズム」、つまり、単にファクト(事実)だけを記述するのではなく、それを文学の手法を使って読ませるジャーナリズムを感じました。実際に取材された事柄を、このような構成で書くに至るまでには、かなりの試行錯誤がありましたか?
森:実は意識的に凝った構成で書こうとしていたわけではないんです。小倉昌男の謎を解いていく過程が、自分が取材していった過程と、ほぼ一致していただけなんです。
横田:じゃあ、この章立ての順番で取材されたんですか?
森:ほぼそうですね。それにしても人物伝に取り組んで改めて思ったのは、たとえ本人が亡くなっていても、その関係者が存命の場合は、なかなか書きにくいことも多いということですね。取材で話したことを記事にすることは了解してくれても、その記事が原因で新たな問題が生じることもある。取材相手が話してくれた時点と、記事が発表された時点、あるいは記事が発表されてからも、取材相手の気持ちが変わることがある。そのため、人物をテーマにしたノンフィクションは配慮が必要になることが少なくありません。
横田:僕も消しゴム版画家の故・ナンシー関さんの評伝(『評伝 ナンシー関――心に一人のナンシーを』)を書きましたが、取材に協力してくださったナンシーの妹さんからは、「両親が悲しむようなことは書かないでくれ」というのが唯一の条件でした。
森:『小倉昌男 祈りと経営』は、小倉さんの娘さんが取材を受けてくださり、しかも、彼女が抱えていた「ある問題」が解決していたからこそ成立したともいえます。もしそうでなかったら、小倉さんが抱えていた家族の問題について、たとえ確証が得られていても、この本は書けませんでした。
横田:娘さんが抱えていた問題が何かは、具体的にどの段階で確証が得られていたんですか?
森:いえ、ご本人にお会いするまで、まったくわかりませんでした。事前に、弟の小倉康嗣さん(元米国ヤマト運輸社長)にも取材をしていたのですが、「姉については、姉本人に訊いてくれ」と言って、彼は話してはくれませんでした。おそらく娘さんも、長年、自分が抱えてきた問題が解決して、前向きになれたから取材に応じてくださったのだと思います。そういった点では、奇跡的なタイミングが重なりました。
横田:ご著書にもありましたが、3年前なら取材に応じてくださらなかったのではないか、と。ただし、綿密な準備をしておかないと、そのタイミングも訪れないと思います。僕は1990年代の後半、運輸業界紙『輸送経済』の記者をしていたのですが、小倉さんは95年に経営から退いていたので、ほとんど接点がありませんでした。トラック協会の総会に登壇されていたのを見た程度です。ただし、「小倉さんには手のかかる娘さんがいらっしゃる」という話は耳にしていました。