著者は、綿密な取材と調査によって母親の主張に信憑性がないことを明らかにしていく。そもそも、自殺の原因が当初のいじめから校長の殺人に変わっていることからして大きな矛盾だ。
結局、母親が起こした刑事訴訟は不起訴処分になった。都合4件に上った互いの民事訴訟は一審ですべて校長らの全面勝訴となった。特に、バレー部の関係者が母親に損害賠償を求めた裁判では、母親に賠償を命じている。〈いじめ自殺の遺族と目される者が逆に賠償を命じられるなど、前代未聞のこと〉だと著者は書く。その後、2009年から2013年にかけて、母親の控訴取り下げ、最高裁の上告棄却によってそれらの判決は最終的に確定した。
だが、校長が名誉毀損で起こした裁判の判決が、母親と弁護士に対して校長に謝罪する広告文を地元紙に掲載するよう求めたのに、いまだに果たされていない。マスコミは事件の第一報は大きく報じたが、判決の扱いは小さく、とりわけ母親側に立って報道したメディアはそうだった。なかには「母親訴え一部除き認定」という見出しをつけて報じた新聞もあった。これでは見出しを見ただけの読者は誤解してしまう。
著名なルポライターも著者の取材に応じようとしないという。〈その結果、この丸子実業の事件は、第一報の通り、「いじめ自殺事件」として人々の記憶に漠然と刻みこまれたまま風化してしまった〉のだ。校長の名誉は回復されたとは言いがたい。
「空気」に弱く、建前に縛られるマスコミは、学校を舞台とした事件が起これば、現場の記者は親の言動に違和感を抱いても、「責任は学校にある」という立場を取りがちだ。「反権力」や「人権派」は「権力たる学校はつねに悪」というイデオロギーで物事を見る。あらかじめ「絵」を描き、冤罪を作り出すのは警察、検察に限らない。この事件のように、親が〈被害者を装った加害者である〉こともある。だから始末が悪い。
本当に人権を侵害するのは誰であり、何なのか。そのことを考えさせる作品だ。
※SAPIO2016年5月号