ならば、不謹慎厨を見つけ出し、筆誅を加えればいいのか。そのような不謹慎厨叩きをしているツイッターアカウントもいくつかあったが、制裁対象アカウントのほとんどはすでに鍵をかけていた。ほとぼりが冷めるまで身を潜めるつもりか、新しく別のアカウントを作って「不謹慎狩り」はそこでやろうというのか、いずれにしても叱られて反省するような者は基本的にいない。ネット上でインモラルな傾向の強い相手にモラルを説くことがいかに虚しいかは、みなさんとっくにご存知のはずだ。
なのに、ブームのごとき不謹慎厨叩きが、この記事がアップされる時点でもきっと止んでいない。なんでもかんでも「不謹慎だ!」と決めつける風潮を批判することは、ネット上の言論や表現の自由を希求する意志であり、思考ストップの危険性を指摘する理性とも言えそうだが、実際はどうか。
不謹慎厨がわんさとわいているなら分かるのだが、探し出すのに手間がかかるくらいしかいない状況で、その何十、何百倍もの人数が同じような憂慮や批判をしているというのは異常だ。言論や表現が紋切型で不自由だなあと思うし、思考ストップの危険性もおおいに感じる。偽善性を叩く不謹慎厨をさらに叩くのも偽善とまでは言わないが、どうも不健全な気がしてならない。
人間味あふれる辞書としてファンの多い『新明解国語辞典』(第五版)で三文字熟語を引いてみたら、以下の解説があった。
ふきんしん【不謹慎】心の抑えがきかず、衝動に任せて行動する様子。
なるほど、である。ということはつまり、不謹慎厨も不謹慎厨叩きをする人も、心の抑えがきかず、衝動に任せて行動する点において似たようなものなのだ。意志や理性ではなく、反射的で感情的なのである。でも、当人は自分の意志で理性的にもの言いをしているつもりだから、レッテル張り一発の不謹慎厨よりも心が捻じれているとも言える。
不謹慎なことを言うのは当然、不謹慎。不謹慎厨はもっと不謹慎。不謹慎厨を叩いて何かもの申した気になるのは、さらに不謹慎なことなのだ。