1983年、初の海外公演となる『王女メディア』がイタリアとギリシャで喝采を受け、1987年の『NINAGAWAマクベス』ロンドン公演で世界的な評価を確立した。それでも、当時の日本の演劇界、特に劇評家から酷評を受け続けた。
「蜷川さんはギリシャ悲劇もシェイクスピアも日本やアジアの民衆の視点から大胆な解釈をして演出した。『マクベス』は仏壇の中を舞台にし、『王女メディア』では津軽三味線を使った。そうした試みが、“古典を古典らしく演じること”を良しとした既存の演劇界から反発を受けたのです」(演劇関係者)
1988年6月7日付の朝日新聞夕刊の劇評で、《東京・青山のスパイラルホールで見た「ハムレット」には、正直なところ、がっかりし疲れ果てた…》《俳優の責任というよりも、演出家の方に問題があるだろう》と酷評された。
蜷川さんはこの劇評が「フェアでない」と激怒。ポスターの裏にマジックで手書きした『ニナガワ新聞』を劇場のロビーに張り出した。
《“朝日という名の電車”に乗って座席にふんぞりかえって(中略)一度として演劇のコンセプトを理解したことはない》
この一件は当時、「800万部対1部」の戦いとして話題を呼んだ。
80才になった蜷川さんの最後のインタビュー(『NumeroTOKYO』2015年12月号)ではこう語っていた。
《海外の人が書いた本だと、俺は世界の10人の大演出家の1人に入っているんですよ。だけど、俺はすでにトップ3だろうと思ったわけ》
批判の的になっても、自分が信じた演出は揺るがない。それは世界に認められるまで続ける。それが、蜷川さんの枯れることないモチベーションだった。
※女性セブン2016年6月2日号