◆誰かに思いを尽くせたら十分

 亡き夫からの手紙を心待ちにする認知症の母親を安心させたいという息子の依頼には、季節の花々を押し花にした愛らしい手紙を。手術を前に初恋の人に〈僕が生きているってことを、伝えたいだけなんです〉との依頼には、便箋にベルギー製のクリームレイドペーパー、インクはセピア色を選び、ガラスペンで優しさと生きる意志を表現する鳩子の丹念な仕事に、心を込めるとはこういうことかと改めて思う。さらに本書ではそれらの手紙を字書き・萱谷恵子氏が全て手書きし、肉筆の魅力を再発見できる。

「萱谷さんは映画のお仕事もされていて、ヘタな字も巧いんです。鳩子が〈汚文字〉に悩む美女〈カレンさん〉と出会って気づくように、心の綺麗な人が綺麗な字を書くとは限りませんが、おかげで手紙の持つ身体性がより際立った気がします。

 今は用件だけならメールで済む時代ですが、手紙は封を切ると、その人の周りに漂う空気や匂いまで届く時がある。私も手紙は書くのも頂くのも好きで、効率的では全くないその手間や届くまでの曖昧な時間が、たぶん物語を生むんです」

 頼朝を祀る八幡様と護良親王を祀る鎌倉宮の両方にお参りする鳩子は、代書屋を営む一方で裏庭の文塚を守る。そういう裏面も必ず描くのが小川作品のよさだ。そもそも代書屋は人の生死や愛憎全般を扱い、鳩子は匿名の〈元・姉〉の絶縁状に心身を消耗する一方、彼女の愛情にも思いを馳せた。

「手紙は良くも悪くも形に残るし、自分では言いにくいことを代弁してくれたり、白黒つかない微妙な手紙の方が需要はありそうですね。心温まるだけでも毒々しいだけでもない、読者宛ての長い長い手紙を書いている私も同じかもしれません」

 その点、祖母とは築けなかった関係を町の人と築く鳩子の造形は、著者からの最大のメッセージだろう。

「鳩子が自分を責めるのはわかる。でも無闇に苦しむより、その分、他の誰かに思いを尽くせたら私は十分だと思うんですね。家族に対して素直になれないなら、血縁とは関係ない人を思えばよく、たとえ不器用でもいろんな人の思いがめぐりめぐっていくことが、一番大事な感じが私はします」

 きっと彼らはこれからも、お花見や結婚式やお葬式や、いくつもの祝儀や不祝儀を重ねていくのだろう。そのたびに町の人々から必要とされ、自分にできることを丁寧に粛々とやって生きる鳩子の未来をも読みながらに確信できる、静かでいて背筋の美しい良著である。

【プロフィール】おがわ・いと:1973年山形市生まれ。2008年『食堂かたつむり』を上梓。映画化や翻訳もされ、伊バンカレッラ賞、仏ウジェニー・ブラジエ小説賞受賞。他に『つるかめ助産院』『にじいろガーデン』『サーカスの夜に』、エッセイ『ペンギンと暮らす』『これだけで、幸せ』等。夏はベルリンで暮らし、モンゴルでは遊牧生活も経験。「少なく豊かに暮らすのが理想です」

■構成/橋本紀子 ■撮影/国府田利光

※週刊ポスト2016年6月17日号

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