高林孝行氏は2万冊の古書に囲まれる毎日
アトランタの準決勝、決勝で先発した杉浦正則(現48歳)は大会後、球界の寝業師と呼ばれたダイエー(現ソフトバンク)の根本陸夫から「君には今後の野球界を背負ってもらわないといけない」と口説かれてもプロ入りせず、当時プロは出場できなかった五輪での金メダルにこだわった。
きっかけは、バルセロナだった。日本生命に所属していた杉浦は準決勝で敗戦投手になり、宿舎で号泣していると、仲間たちから「最後の試合を勝って終わろう」と慰められた。気持ちを切り替えた杉浦は翌日もリリーフを任され、銅メダルを獲得。
「あの言葉で立ち直り、仲間の素晴らしさを知った。一発勝負の悔しさや喜びも味わい、いつか必ず金を獲りたいと思った」
シドニー(2000年)では、代表発表直前に「杉浦落選」と報じられた。結局、選出されたが気持ちの整理がつかず、辞退が頭に浮かんだ。その夜、同志社大学の後輩である宮本慎也から電話があり、気持ちを吐露すると諭された。
「何いっているんですか。貫いてきた目標に、もう1回挑戦してください」
3度目の五輪となるベテランはブルペンの電話当番も厭わず、チームに献身したが、結果は4位。16年経った今、日本生命で法人部長を務める杉浦にとって、五輪とは何だったのか。
「金メダルという目標を持つことで、失敗をどう生かすか前向きに考えるようになった。生き方を学んだ場所です」
(敬称略)
●撮影/藤岡雅樹
※週刊ポスト2016年8月12日号