だが、素潜り漁は苦しく、同じく佐良浜漁師が得意としたダイナマイト漁も事故が多く、彼らはつねに死と隣り合わせだった。著者が佐良浜でちょっと取材をしただけでも、いくつもの行方不明船の存在が明らかになり、〈海という世界がもつ底暗い闇の奥深さ〉に暗然としたという。
著者が探検や冒険を続けるのは日常生活の中で死が感じられなくなったからだというが、佐良浜では死は生のすぐ近くにある。それゆえ、〈死を恬淡とうけとめるような独特の死生観〉があるという。そう考えると、ある漁師の2度の漂流は、「補陀落渡海」以来の海洋民としての歴史の中で起きた、ある種宿命的な出来事のように思えてくるのである。
〈私が本村実(注・2度の漂流をした漁師)の漁師としての足跡をこれほどたずねまわったのは、このような不条理な海という自然にしばりつけられて生きてきた土地と人々の生き様に魅了されたからであった。と同時に、彼らにある種の妬みをかんじたからでもあった〉と、著者は書く。そこに〈人間の生き方の原型〉を見たという。
私(評者)は冒険や探検の地、あるいは大海原だけでなく、平凡な日常にも死は見えない裂け目から覗いていると考えるので、著者の世界観に完全に同意するわけではない。
しかし、単に関係者に話を聞き、資料を渉猟するだけでなく、体験的な乗船取材を行って少しでも漁師の世界を肌で知ろうとし、フィリピンを走り回って救命筏の残骸の切れ端まで入手するなどした著者の執念には感服し、また「極限」に憧れるある種のストイシズムにも好感を持つ。今まであまり読んだことのないテーマの、スケールの大きな作品であり、読み応え十分の傑作であることは間違いない。
※SAPIO2016年11月号