それは一般のマスメディアが語る1968年、1969年とは程遠い。普通は学生運動を担った世代を全共闘世代と呼び、その姿を時代の顔と捉える。だが著者はそれを「虚像」と断じる。〈全共闘世代とは、同時になお集団就職世代〉であり、〈数において同世代人口の圧倒的多数を代表したのは、「学生の異議申し立て」より「青年の主張」の方であった〉と書くのだ。これはつい忘れがちな視点ではないか。
著者も指摘するように、学生運動に対する「勤労青年」に期待する勢力が存在し、大会を研修に活用する企業や、学校、宗教団体、警察・消防が出場に向けて組織動員していた。「青年の主張」に親和性を持つのは保守など「右」とは限らず、のちには入賞した在日韓国人の主張を社会党、共産党が国会で取り上げ、全国の朝鮮高級学校も強力に組織動員し、1990年代から2000年代にかけて5年連続入賞を果たした(応募資格に国籍による制限はなかった)。
「青年の主張」の全盛期は1960年代後半で、以後、高校・大学進学率の上昇とともに若者が離れていった。さらに時代が下って社会が豊かになると、〈貧しくとも清く正しくという生き方は、社会的栄達や経済的成功に恵まれなかった大多数の人々を慰撫してきた公的な「物語」だったが、それが日本人全体として説得力を失ってきた〉。つまりは〈「青年」の解体〉である。大会と番組の終了は必然だった。
著者は可能な限り資料を掘り起こし、入賞者の主張やその後の人生まで紹介している。その一つひとつの事実が面白い。たとえば、1963年度には高校生だった重信房子が「小さな親切運動」のボランティア体験を語り、東京地区大会の3位に入賞している。もしも1位となって全国大会に出場していたら、その後の人生はどうなっていたか。重信の8年後、あさま山荘事件の直前の全国大会では、当時大学生で、後に国際政治学者、国会議員となる猪口邦子が海外体験を語って1位を獲得した。重信にそのような人生はあり得ただろうか。
本書は今までにない視点からの戦後社会史として読める。資料豊富なクロニクルとしても貴重で、労作をまとめた著者に敬意を払う。
※SAPIO2017年4月号