◆まだ見ぬ巨乳を求めて本場アメリカへ乗り込む
当時「巨乳」は言葉すら存在せず、「グラマー」「デカパイ」「Dカップ」などと呼ばれていた。
「『Dカップ』は海外から輸入してきた言葉です。向こうのサイズは日本よりも2カップ大きいので、巨乳を指す言葉になったのでしょう。『BACHELOR』では『Dカップ女優』とか『Dカップビデオ』といった使い方をしていましたね」(『痴女の誕生』著者で日本巨乳史に精通するフリーライター・安田理央氏)
日本では1980年代から中村京子が「Dカップ京子」として活躍していたが、国内はおろか海外でも巨乳のモデルは少なかった。通信社を通じてモデルの画像を手に入れていたが、それも限度がある。
そこで巨乳を撮影しているアメリカのスタジオに編集部員が乗り込み、直接入手することになった。さすがに巨乳の本場アメリカだけあって、モデルのバラエティは豊富で、同誌にとって生命線ともいえるカメラマンとの出会いも生まれた。ジョン・グラハムである。
「当時のアメリカは豊胸手術が盛んになり始めた頃でした。ジョンは、化け物みたいなオッパイをたくさん撮影していたので彼の作品は大変な反響がありました」(前出・白石氏)
一方、世界の“巨乳地図”は冷戦の終結に伴うベルリンの壁崩壊によって大きく模様を変えた。共産圏のモデルが大量に西側に流入、世界中のグラビア誌面を様々な巨乳が彩った。だが、豊胸手術による巨乳は賛否両論を呼び、日本でも是非が問われた。論争に終止符を打ったのは、1991年に登場した東ドイツ出身のクロエ・べブリエだった。