哲也さんの場合、簡単な会話をするときは、妻が哲也さんの口の周りの動きを読んで伝えている。「目の動き」などを読み取るコンピュータの会話補助具を使うと、かなり複雑な会話もできる。俳句はそうやって彼が表現したものだ。
栄養は、主に胃ろうから摂っている。冒頭の、ぼくが「山頭火だ」と思った句には、彼の食への切ない憧れが込められているように感じた。
「ああ飽きた 寝たきりに飽きたどうしよう」
どこかユーモラスな表現で、寝たきりになった苦しみ、悲しみを詠んでいる句もあった。寝たきりには飽きたといいながら、ロックドインの体のなかには、生きることには飽きていないエネルギーが満ちているように感じた。
医療や介護の重要な仕事は、想像することである。相手がどんな状況にあり、どんなことを望んでいるのか、どれだけ相手に寄り添って考えられるかがポイントになる。つまり、忖度である。
忖度というと、最近は悪いイメージがついてしまった。権力の意向を忖度して、自分は責任をとらない日本人の悪いクセが明らかになった。
その一方で、忖度できない症候群もはびこっている。「障害者だから」「認知症の人だから」「要介護者だから」とレッテルを貼ることは、はなから忖度をやめ、ほとんど思考停止に近い。
ロックドイン症候群の哲也さんを「寝たきりの障害者」とだけ見ているうちは、彼の内面は何も見えないのである。