石田:でも、私は秀秋に恨みなどありません。秀秋は叔母である豊臣秀吉の正室・高台院(ねね)から家康に味方するよう促されていた。当時18歳だった秀秋の心は東軍と西軍の間で揺れ動いていたと思う。むしろ最後は、東軍としてきちんと戦いきったのだから、敬意さえ抱いています。だから小早川さん、ご安心ください(笑い)。
小早川:私も今日、「秀秋は卑怯な裏切り者ではない」と訴えたかったのです。石田さんの言葉を聞いて安心しました。
大谷:“秀秋が裏切らなかったら”というのは、関ヶ原の合戦を語る上で最も重要な「歴史のif」ですな。その観点でいくと、後からかけつけたうちの先祖の大谷吉継が序盤から参戦していたら東軍は危なかったのでは?
徳川:はっはっは。家康公はそういった「if」がないことを把握しておられたうえで、江戸で手紙を書いていたのでしょうね。
【*家康は関ヶ原の戦いの直前、出陣を急がず江戸城にこもって各方面に手紙を送り、状況の把握や西軍の将に内応を打診した。この“根回し”が合戦の勝敗を決めたと言われている】
家康公は10代から戦場を駆け回り、豊かな経験があった。対して西軍の若々しい益荒男たちは、家康公にとっては子供か孫くらいの年齢ですから、武将としての格も違ったのかもしれません。大局を見て動いた家康だからこそ、合戦の10日前まで江戸城にこもり、100通を超える手紙を書き続けることができたのでしょう。