五年前に亡くなった吉本隆明は戦後最大の思想家と評される(私はそう思わないが)。初期の重要論文「転向論」(『藝術的抵抗と挫折』所収)に、こんな記述がある。吉本の文章は日本語ではなく吉本語で書かれているため、理解しにくいが、我慢して読んでいただこう。後ろに私の日本語訳を付けておくから。
「近代日本の転向は、すべて、日本の封建性の劣悪な条件、制約にたいする屈服、妥協としてあらわれたばかりか、日本の封建性の優性遺伝的な因子にたいするシムパッシーや無関心としてもあらわれている」
戦前の治安維持法下に起きた思想転向は、日本の伝統的思想への屈伏であっただけではなく、伝統的思想の中の「優性遺伝」のような良い側面への無理解を自覚させられる出来事でもあった、という意味だ。
少し後にも、転向した若き中野重治が郷里の農村で篤実な老父から説教される場面に、こんな一節がある。
「このとき日本封建制の優性遺伝の強靱さと沈痛さにたいする新たな認識がよぎった」
優性遺伝は優位に現れるのだから強靱に決まっている。それが沈痛というのは意味不明である。ともかくも、この一節の意味は次のようになる。老父の説教を受けた時、中野重治青年の心に日本の伝統的思想の優れた側面への認識が生じた、という意味だ。
吉本隆明は、米沢高等工業学校、東京工業大学を卒業。当初就職したのは東洋インキ。一貫して理系であった。そのわりに科学用語は不正確。文章は難解な吉本語。どうも知識人たちの間には一筋のおかしな「劣性遺伝」があるようだ。
●くれ・ともふさ/1946年生まれ。日本マンガ学会前会長。著書に『バカにつける薬』『つぎはぎ仏教入門』など多数。
※週刊ポスト2017年10月6日号