LGBTに限らず、最近はマイノリティの存在と権利を訴える動きが盛んだ。ユウトさんも、人権を守り、偏見や差別をなくそうという思いはもちろんある。だが、マイノリティと呼ばれる当事者には、一人ひとり異なる思いがあり、問題への取り組み方も人によって違うのに、声の大きな人が自分の運動の仕方に無理に巻き込もうとする動きが強くなっていることが、かえって世間の反感を買うのではないかと不安を抱いている。
「性的少数者だけでなく、ニューカマーの外国人問題だってそうです。多様性は重要だけど、そのことを利用して自分とどう関わりがあるのかよくわからないデモへの動員をかけたり、インタビューを受けさせられて、政治家への不満を答えさせたりするパターンが多い。そこでは、なぜか顔出しや自身のプロフィールをさらけ出せ、と半ば強いるように求められる。記者が僕たちに寄り添い、話を聞いてくれて、匿名の同性愛者の声として記事を書いてくれれば、それだけで嬉しいと思ったはずです。でもそこには必ず顔出しなどの”前提”がある。これがわからないんです。結局あなたたちは何がしたいのか? いいように使おうとしてませんか? と」
前出の女性記者は、自分の記事を特ダネにしたいという欲望のために、マイノリティの人権のために戦うべきだという理屈を振りかざしてきたと感じたユウトさん。ユウトさんは断ることが出来たが、しつこく食い下がられて断り切れず、不本意な形で世間に向けてカミングアウトさせられた人がいる可能性もある。なかには、考えてもいなかった政権批判に結びつけられた記事に利用された人もいるかもしれない。
政治的な活動すべてが非難されるべきものではない。本来の、当事者の人権を守り、偏見と差別をなくすためには有意義な方法だからだ。だがマスコミへの露出やロビーイングなど政治的活動をとる場合に忘れてならないのは、偏見と差別にさらされている当事者が考え、決定し、主体的に行動することが大前提だということである。
ところが、社会的弱者の存在が明らかになった瞬間に、彼ら、彼女らに寄り添うふりをして利用し、当事者が求めるのとは違うテーマに関連させて政治問題化しようとする試みをする者が、いつの時代にも存在する。これはLGBT問題に限ったことではない。
「LGBT問題だって、今のように何でもかんでも社会や政権への不満と結びつけるような雑な話ばかりさせられていたら、いつの間にか議論さえされなくなると思います。それは、僕らが”政争の具”足りえないと判断されれば明日からだって無視されるんだと思います。怖いのは、政争の具とされたことで、僕らという存在がこれまで以上に色眼鏡で見られかねないことです。日本はLGBT問題、性差別問題において認識が甘い、と世界中で指摘されていますが、それを使って別の政治をしようとするから、余計に悪くなる」
ユウトさんは、自分のような性的少数者が今まさに「消費されている」と日々痛感している。「LGBT」だと告白すれば、大変だね、そうは見えないね、といった答えが返ってくる場合がほとんどだが、別に大変でもないし、変わっているとも思わない。この落差こそが、実際に性的マイノリティーの人々が、すでに社会から「かわいそう」とか「気の毒だ」と思われ始めている証拠ではないか、とも受け止めているという。
「とある番組に出たゲイの知人が話していたんです。”こういった人たちがいるのだ”で終われば済む話が、マスコミへの出方、報じられ方によって必要以上にセンシティブで腫物のような存在として社会に認識されてしまい、やはり打ち明けるべきではなかった、やはり社会は私たちを受け入れてくれなかったと、間もなく絶望しなければならないかもしれない、と」
ユウトさんの知人は、某番組の出演前に、ディレクターから「オネエな感じを強調して」「白い目で見られたエピソードを多めに話して」などとアドバイスを受けていた。「私はゲイです」だけでは弱く、そこにドラマティックで、かつ虐げられているようなエッセンスを取り入れないと、番組が成り立たない、そう間接的に説明されたのだ。
「LGBTを知ろう、受け入れようという動きは、どちらかと言えば歓迎すべきこと。でも、LGBTであることを白状させようとか、政治家に文句を言うべき、国のダメさを訴えろ、と強要してくるようなことになってはいないか。それでは結局、性的少数者は以前より居心地が悪くなってしまいそうですね」
ユウトさんの一言は、我々マスコミ人にとっても、社会活動家にとっても重く突き刺さるものであることは間違いない。いいことをしている、社会のため、といって取材しモノを書き、発表することは簡単だ。この問題の本質とは何か、少数者や弱者が何を望み、社会がどう動いていくことが、社会の幸福につながっていくのか。うわべだけの言葉を用いていては、声や思いは、誰にも届かない。