モンゴルを訪問される予定の雅子さま(撮影/JMPA)
上皇ご夫妻が平成の時代に始められた、慰霊の旅。その精神を受け継がれた雅子さまは、皇室の「祈りの歴史」に新たな1ページを刻もうとしている。重責を果たそうと奮闘される皇后の表情には、周囲の不安もはねのけるような確かなご覚悟が満ちあふれていて──。
「本人はもとより、私も残念に思っております」
2007年7月、モンゴルご訪問を目前に控えた皇太子時代の天皇陛下は、記者団に向かって苦渋の思いをこう吐露された。当初、ご夫妻でのご訪問が調整されていたものの、雅子さまの体調に折り合いがつかず、陛下おひとりで出発されることになったのだ。あれから18年──国母となった雅子さまはリベンジの機会を得られ、陛下との“約束の地”に降り立たれる。
天皇皇后両陛下は、7月6日から13日まで7泊8日の日程で、国賓としてモンゴルを訪問される。両陛下が即位されてからの海外公式訪問は、2023年のインドネシア、2024年のイギリスに続いて3度目だ。
「モンゴルの首都・ウランバートルは、東京から西に約3000km、飛行機で5時間あまりかかります。日中は30℃を超える猛暑となる一方、朝晩は10℃台まで冷え込み、一日の寒暖差が20℃から30℃になることも珍しくない。さらに標高が高く空気が澄んでいることから、降り注ぐ紫外線はかなり強烈です。現地の日差しに慣れていない人の体にはこたえるでしょうね」(旅行代理店関係者)
アジア大陸の中央に位置するモンゴル。乾燥した空気の中、灼熱の太陽が肌を焼く同国へのご訪問を前に、雅子さまは体調管理に努められたという。
「皇居からの外出を伴うご予定をセーブして、うまく調整されていました。6月10日の『日本学士院賞』、24日の『日本芸術院賞』については、午前中に行われる授与式の出席を見送られた一方で、皇居内で開かれた午後の茶会にご出席。茶会では特にお疲れのご様子もなく、愛子さまとともに受賞者と笑顔で懇談されていました」(宮内庁関係者)
一方、宮内庁内部からは、ご訪問を前に不安の声も聞こえていた。
「出発を間近に控え、準備に当たる侍従職はかなり気を揉んでいたといいます。というのも、本来であれば分刻みで計画される両陛下の具体的なスケジュールが、ご出発まで1週間を切っても定まらなかったのです。国内以上に徹底した警備体制が求められる中、これほどの遅れは、かなり異例のこと。これは、モンゴル側の対応が遅いことが原因のようですね。背景には、前首相の不祥事による現地の政情不安があったようです」(前出・宮内庁関係者)
準備がままならない中での断行ともいえるが、両陛下は、今回のご訪問にあたって大きな重責を担われている。天皇皇后としての同国訪問は今回が歴代初なのだ。
「今回のご訪問は、戦後80年の節目にあたる今年、両陛下が硫黄島、沖縄、広島と各地を巡られている“慰霊の旅”の一環でもあります。上皇さまと美智子さまが始められた慰霊の旅ですが、平成の時代は主に激戦地となった南の島々を訪問されてきました。一方で、シベリアをはじめとした北方の抑留者をこれまで天皇皇后が慰霊されたことはなく、ある意味平成時代の“宿題”ともいえるのです。
両陛下のご訪問先は、あくまでも相手国側からの招待に基づくものではありますが、最終的なご判断には両陛下のご意向も反映されるはず。今年、ご訪問先としてモンゴルを選ばれたのは、これまでにない“令和らしさ”といえるでしょう」(皇室ジャーナリスト)
実際、モンゴルでも多くの抑留者が命を落としている。終戦直後に旧ソ連によって抑留された日本人のうち、約1万4000人がモンゴルに移送され、強制労働に従事させられた。冬はマイナス40℃、真夏は40℃近くまで上昇する厳しい環境。戦争が終わったにもかかわらず、約1700人が祖国の土を踏むことなく、栄養失調などで亡くなった。
両陛下は、祖国への帰国を願う中で亡くなった人々をしのんで建立された「日本人死亡者慰霊碑」に供花される予定だ。滞在中は慰霊に加えて、歓迎式典や大統領との会見、晩餐会に臨まれるほか、両国の文化交流も視察される。
「日本式の教育を取り入れたモンゴルの学校を訪問される予定です。そこではモンゴル語で漢字を教える授業を視察されるとのこと。また、特に目玉となる行事のひとつが『ナーダム』のご視察です。これは、モンゴル相撲や競馬、弓の大会が開かれる同国最大級の祭典です」(前出・宮内庁関係者)
さらに、両陛下と角界のヒーローたちとの対面も期待されている。
「朝青龍や白鵬など、モンゴル出身の元横綱が勢揃いして両陛下をお出迎えする場面も見られるかもしれません。18年前に陛下が訪問された際、モンゴルを『朝青龍と白鵬の国?』と表現されたほどに相撲好きの愛子さまは、両陛下からモンゴルのお話をお聞きになるのを楽しみにされていることでしょう」(別の宮内庁関係者)