日本が初のW杯出場を決めた1997年のフランス大会予選、日本の大黒柱であるカズこと三浦知良は初戦のウズベキスタン戦で4ゴールを挙げる大活躍を見せる。しかし、3戦目の韓国戦で尾てい骨を痛めた後も強行出場を繰り返したことで状態が悪化。
4試合目のカザフスタン戦で加茂周監督が更迭されると、点を獲れないカズにバッシングの矛先が向かった。フランス行きを決めたイランとの第3代表決定戦ではカズに代わって出場した城彰二が同点ゴールを決め、メディアやファンは“世代交代”を煽り、カズに限界説を唱えて引導を渡そうとしていた。
そして1998年6月2日、岡田武史監督の口からW杯直前にカズのメンバー漏れが発表される。そして、城彰二を「フォワードの軸に考えている」と報道陣に公言した。城はのちに自著『サッカー界のぶっちゃけ話』(宝島社)で、記者から岡田監督の言葉を伝え聞いた時の心境を語っている。
〈岡田監督から「お前を軸に考えている」とは言われていなかった。記者の言葉が耳から離れなくて、激しく動揺した。こんなにも気持ちが揺さぶられて、落ち着かなかったのは、サッカー人生で初めてだった〉
カズがいなくった代表で、城は初めて“キング・カズ”と呼ばれる所以を実感したという。
〈練習後は毎日欠かさずコメントを求められた。お願いだから放っておいてくれ、と叫びたくなったこともある。そういえばカズさんも、好不調に関係なくメディアに声かけられ、必ずコメントをしていた。こういうところでもエースの重圧と戦っていたのか、と気づかされた〉