「鶴見の生涯をつらぬくマゾヒズムじみた自己分裂の性向」を、もちろん著者もとらえている。というか、この「性向」を軸にすえつつ、鶴見の人となりをあらわしていった。鶴見には“ジキル博士とハイド氏”にもつうじる「人格分裂」がある。ただ、通例とちがい、鶴見の場合は「ハイド氏のほうが、妙に明るい表情を見せる」。この指摘はうなずける。やはり、そうなのかと納得した。
後藤新平の孫であり、鶴見祐輔の子であるという。この出自に、名門の子息であるという立場に、鶴見はさいなまれつづけた。そのことにとんちゃくしなかった姉の鶴見和子とは、決定的なちがいがある。さまざまな局面で、その差がいろいろな意味をもったことにも、私は気づかされた。伝記的なディテールも、ほりさげられている。ていねいにしあげたいという著者の息づかいもうかがえる、好著である。
※週刊ポスト2019年2月8日号