隣保共助は、福祉や弱者救済からの政治の逃亡の言い訳なのになあ、今も昔も、とぼくは思う。ぼくにはシェア社会の礼賛は、要は自分らで解決しろという、一つ間違うとマイルドな自己責任論のような気がする。今、子育てや弱者救済に回すお金がないのは、オリンピックやイージス・アショアに無駄金使ってるからだろうと、正しい税の分配を主張すべきなのが左派の立ち位置ではないのか。
シェア社会を「運動化」するなら、そういう近隣のコミュニティが、一瞬でファシズムの下部構造に変わった歴史を踏まえておかないと、とぼくは思うけど、こういうことを言うから右からも左からも嫌われるんだろうな。
※週刊ポスト2019年3月8日号