新劇と映画を主戦場にしてきた渡辺にとって大衆演劇は想像のつきにくい、遠い世界だった。
「筑紫美主子さんという、唐津を本拠地にしている女座長さんの手記を前に読んでいたんです。ロシア軍人と日本人女性の間に生まれて、苦労されて一座を成したという。あの方だ、と思って『女座長役をすることになったのですが無知なもので、ぜひしばらくそばに置いていただけませんか』と手紙を書きました。
筑紫さんの付き人をさせていただいて驚きました。まず、公演はヘルスセンターで。みんなお酒を飲みながら芝居を見ている。俳優としてショックでした。楽屋も小さくて。そこにセルロイドの古いお裁縫箱がありまして、その中にお化粧の道具が全て詰まっていました。化粧を落とすのも、椿油の一升瓶がそばに置いてあって一気に落とす。座長の席とかが特別にあるわけではなく、皆さんが一列に並んでバーッとお化粧をして。それで終わったらとにかく手早いんです。すぐに次の場所に行くから旅芸人は身軽じゃないといけないんですね。
筑紫さんが舞台にお立ちになると、私は客席の後ろから観ていました。すると、飲み食いしながら観ていたお婆ちゃんたちの手が、筑紫さんがお芝居を始めると止まるんです。そして笑っていたと思ったら、今度はもう泣いている。そのくらい筑紫さんのお芝居はテンポが速い。
つまり、お客さんを笑わせて泣かせて喜ばせて満足させるのが大衆演劇なんだと知りました。新劇ではあまり経験したことがないので、新鮮でした」
●かすが・たいち/1977年、東京都生まれ。主な著書に『天才 勝新太郎』『鬼才 五社英雄の生涯』(ともに文藝春秋刊)、『なぜ時代劇は滅びるのか』(新潮社刊)など。本連載をまとめた『すべての道は役者に通ず』(小学館)が発売中
■撮影/五十嵐美弥
※週刊ポスト2019年3月22日号