◆会場の暑さが……
大丈夫と信じていても、心配はあった。当日、アイスリンクにいるとは考えられないほど室温が暑かったのだ。隣にいた友人も、「暑い」と上着を脱ぎ、カーディガンも脱ぐ。シャツ1枚になっても、まだ暑いと感じるほどだった。
微妙な温度差でリンクの氷の状態は変わってくる。ツイッターでリンクの間近で見ているファンが次々と「氷が溶けている」と指摘。そして羽生と宇野昌磨(21才)が登場する最終グループでは氷のコンディションに対する不安が強くなっていった。羽生は6分間練習では4回転サルコウの軌道に乗れず、転倒してしまう場面もあった。最後はきれいに決めていたものの、刃の部分(エッジ)を使って踏み切るサルコウは氷が柔らかいとエッジが食い込み飛びにくくなるケースがあるという。
「ゆづは大丈夫だろうか」
不安が会場に流れたのは否めない。それはもしかしたら、羽生に伝わってしまったのかもしれない。事実、羽生は冒頭の4回転サルコウが2回転となった。2回転以下になった場合、点数はノーカウントとなる。そのあとの3回転アクセルや4回転トゥループ+3回転トゥループ、スピン、ステップは見事な出来栄えだったが、冒頭のサルコウが悔やまれた。氷の状態についてはのちに羽生も指摘していたが、それでも失敗は失敗と認める彼の冷静な姿勢に救われつつも、ファンはこう思ったかもしれない。
「もうちょっと信じて応援すればよかった」と。
練習でも転倒やジャンプが抜けてしまうと、ファンはつい「ああ」と嘆息してしまう。それが選手に不安となって伝わってしまうかもしれない。ショートのあと、ファンの間ではなるべく「ああ」とため息はつかないように努力しようという動きがあった。それよりも羽生に惜しみない拍手を送ろう、自分たちは絶対にあなたを信じている、表彰台の真ん中にいるのはあなただ。男子フリー当日までファンは羽生が完ぺきな演技をするところ、表彰台の真ん中で「君が代」をうたっているところをイメージトレーニングした。
「自分たちができることはそれぐらい。きっと羽生くんならやってくれる。確信している」
ファン歴6年の40代女性が強くそう言った。
◆そしてその日は来た
3月23日、男子フリー当日。朝の公式練習を見た50代女性は羽生の様子がいつもと違っていたと語る。
「私はノービスの頃から彼に注目していますが、練習時間が終わっても、リンクサイドに8分も残り続け、『Origin』の振り付けを確認するというという今までの試合で一度としてなかった姿に、“明らかに様子がおかしい”という心配する空気が高まっていったように感じました」
いまだ右足首にけがを抱えた状態で、万全とは言えない。練習でも必死に4回転ループを繰り返し飛び続けた。そのひたむきな姿に観客は涙した。お化粧が落ちてしまったというぐらい泣いたというファンもいた。前出の50代女性は続ける。
「おそらく万全のコンディションとは言えない、ギリギリの状態だったのでしょう。ただ、失敗しても何度も何度もあきらめず4回転ループを練習する姿に胸が痛む一方で、“どんな状態でも羽生くんなら必ずできると信じる!”とファンの間ではさらなる強い祈りに変わったように思います」
氷の上で選手は孤独だ。いくら声援を送っても演技をするのは選手自身。だからファンは祈るしかない。しかしその祈りが力となるのは確かだ。フリーの『Origin』でリンクに立った羽生の表情は落ち着いていた。そのとき、男子フリーのチケットがとれなかった著者は羽生ファンとともに都内のスポーツバーで観戦していたが、大型スクリーンからもファンが彼を信じている様子がうかがえた。
羽生くんなら
ゆづなら
絶対にやってくれる
心臓が飛び出してしまうんじゃないだろかという高鳴りを抑えきれず、祈りをささげるポーズで羽生の演技を見つめる。この光景は全国のお茶の間でもどれだけ見られたことだろう。
冒頭の4回転ループを決めた瞬間、スポーツバーで私たちは飛び上がって喜んだ。店にいたまわりの客も、「すごい!」と拍手を送った。4分間の演技はこの瞬間、今の羽生でしか見られないものだった。演技が終わり、テレビに映った観客たちも「結弦」「羽生結弦」などと書かれた手持ちのバナーを振りながら涙している。
ネイサン・チェン(19才)には負けてしまったが、試合後の羽生の表情は清々しかった。そして「悔しい」と口にし、闘志に火をつけたことがファンにとっては何よりもうれしかったのだ。
試合が終わり、スポーツバーからの帰り道、ファンの一人は泣いていた。
「家族のことだってこんなに泣かないのに~」目にタオルをあて、涙する。わがことのように緊張し、涙してしまうのは、羽生がトップアスリートだからだ。アスリートの人生には常に勝敗がつきまとう。試合に出るからには優勝してほしい。「自分にとって負けは死も同然だと思っている」と試合後のインタビューで羽生が語ったように、華やかな競技でありながら、命をかけて闘う姿にファンは魅了される。そしていつまで彼の演技を見ることができるのか、そのはかない将来にヒリヒリした思いを抱きながら、次の羽生の試合を待つ。今度こそ、彼が満足いく演技ができるようにと祈りながら。
※文中敬称略