強い日差しを浴びた後、汗を拭いながら飲み干すあの味はやはり格別だ。食文化に詳しい編集・ライターの松浦達也氏が指摘する。
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暑い。全国各地で30度の「真夏日」が観測され、北海道・帯広でもまさかの35度超えの「猛暑日」を5月26、27日に観測。冷たい飲料が飛ぶように売れたという。
日本における清涼飲料水の歴史は明治初頭にさかのぼる。その嚆矢とされているのが、1872(明治5)年に発売された”天然水”だ。京都府相楽郡上有市村(現・笠置町)で岩の間から湧き出していた炭酸水を当時、京都舎密局(せいみきょく)が採取場を設け、「山城炭酸泉」として発売。1日あたり瓶500本分が湧いていたという。
その後、明治時代に宮内省が兵庫県にある平野鉱泉で炭酸水の御料工場を建造し、1884(明治17)年「三ツ矢平野水」として発売されたものが、現在に至る炭酸水やサイダーの源流となっている。
「平野水」とはもともと甘くない炭酸水を指していた。しかし1907(明治40)年、平野水にサイダーフレーバーが加えられ、甘みのある「平野シャンピンサイダー」が発売された。いわゆる「サイダー」であるが、この頃から甘いサイダーも含め、「平野水」と呼ぶ用法が目立つようになってくる。
その一端は、文豪の作品にも垣間見ることができる。夏目漱石の晩年、明治末期から大正時代初頭(1910~1913年頃)に書かれた『思い出す事など』や『行人』にも「平野水」は登場する。
『思い出す事など』は1910(明治43)年頃、漱石が大病を患った前後の体験と思索を記録した作品だ。病気の療養中、当初は葛湯しか口にできなかった漱石が、回復の過程でいかに水分を欲したか、そして口にした水分がどれほどうれしかったかという回想シーンで「平野水」が登場する。
「日に数回平野水を一口ずつ飲まして貰う事にした。平野水がくんくんと音を立てるような勢で、食道から胃へ落ちて行く時の心持は痛快であった。けれども咽喉を通り越すや否やすぐとまた飲みたくなった。余は夜半にしばしば看護婦から平野水を洋盃(コップ)に注ついで貰って、それをありがたそうに飲んだ当時をよく記憶している」
こうした処置が功を奏して「渇はしだいにやんだ」と書かれている。「くんくんと音を立てるような」勢いで飲んだ”平野水”がどれほど甘露だったことだろう。