山口組きっての武闘派・柳川組を率いて、「殺しの柳川」として恐れられた柳川次郎(1991年没)は、堅気になった後、一転して日韓の橋渡しに奔走した。生前、柳川と交流した人物は、スポーツ選手から韓国大統領まで多士済々だ。なかでも異色の存在は作家・司馬遼太郎だった。ジャーナリスト竹中明洋氏が綴る。
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司馬の代表作に国内外を訪ね歩いた『街道をゆく』がある。このなかに韓国を取り上げたものが2巻ある。1972年に単行本が出版された『韓のくに紀行』と、1986年に出版された『耽羅紀行』(たんらきこう)だ。耽羅とは、古代から中世にかけて済州島を支配した王国のことである。司馬は1985年に2回にわたってこの島を訪ねて取材した。
だが、実際には司馬はビザの取得に難儀していた。申請したがすんなり出なかったのだ。今でこそ日本人が韓国に行くのに、ビザの取得は不要だが、日韓が相互にビザを免除するようになったのは、2006年からのことだ。
『韓のくに紀行』取材の際には、ビザは問題なく出た。なぜこの時はそうはいかなかったのか。どうやら、80年に司馬が当時の首相の鈴木善幸と外相の伊東正義宛に送った書簡が問題視されたようだ。
クーデターで政権を奪取した全斗煥が野党指導者の金大中に死刑判決を出したことを受けて鈴木と伊東宛に書簡を送り、その助命を祈るとしたためていた。司馬は朝日新聞(1980年11月4日付)に、「だれが見てもバランスを失したかたちで一人の政治家が殺されることについては、市井人としての憤りと当惑とやるせなさを感じます」とも語っている。
全斗煥政権は司馬を危険視したのだろう。このままでは取材に行けない。その司馬に「(全斗煥と繋がりの深い)柳川と会ってみたらどうか」と助言したのが、かねてから司馬と親交が深かった、ある在日の文化人だ。司馬からの打診を人づてに聞いた柳川は、すぐに会うことを決めた。柳川の元側近によると、「会長は意外とミーハーなところもあって、えらいはしゃぎようで喜んでましたわ」。
さっそく、新宿の京王プラザホテルで午後6時に待ち合わせすることになった。だが、待てども司馬は現れない。時間に厳しい柳川は、約束の1時間前には到着する。そして相手が10分でも遅れるようなら怒りだすところがあった。
約束から30分ほど経たあたりだろうか。司馬と、紹介者の在日文化人が悠然と歩いてくる姿がみえた。どうも待ち合わせの場所を勘違いしていたらしい。元側近は、「それを知った会長は私に向かって『お前の手違いやろう』とカンカンになって怒り出したんです。それを見て司馬さんも『そんなことで怒るな』いうて怒りだして。もう無茶苦茶でしたよ」。