アイヌ及び北方少数民族はどこに暮らしたのか?
ゲンダーヌは特務機関の召集を受けて軍事訓練に参加。1943年、樺太西海岸の国境付近に配置され、ソ連側スパイの侵入の監視任務にあたった。
《工作苛烈となるや、ソ連側工作土人が邦領に侵入、首を斬って帰るや、日本側土人またソ連土人に復讐して帰り、国境線で闘い、あるいは彼我とも女、子供を人質として帰るなど、血なまぐさい戦いは連日連夜の如く繰り返し行われたのであった》
扇貞雄の手記にそうある。少数民族は日本側とソ連側に引き裂かれ、互いに殺し合うという悲劇の中にあった。
ゲンダーヌもまたこうした任務に駆り出されたのだろう。後にこう回想している。
《私は特務機関で働けるのはうれしかった。日本人になりたいと思っていたからね。下士官が『南方では高砂族(※)が国のために働いているんだから、お前たちも負けないで一生懸命やれ』と言ったのを今でも忘れないね。私は負けず嫌いだったから、ようし、やるぞという気持ちになっていった》(『オタスの杜から網走へ オロッコ人北川源太郎さんの歩み』網走歴史の会編)
戦後に樺太全土がソ連に占領されると、ゲンダーヌら南樺太にいたウィルタやニヴフの成人男性の多くが、日本軍に協力した戦犯とされ、シベリアでの抑留生活を余儀なくされた。
その生涯を描いた『ゲンダーヌ ある北方少数民族のドラマ』(田中了、ゲンダーヌ共著、現代史出版会)によると、シベリアでの抑留生活は10年近くに及んだ。その間に日本軍の協力者とされた少数民族の大半は過酷な強制労働によって死亡したという。
生き残ったゲンダーヌは抑留生活が終わるとソ連支配の樺太ではなく日本に向かった。ソ連のナホトカ港からの引揚船で、舞鶴(京都府)に上陸したのは1955年のことだ。
オホーツク海を臨む道東の網走に北海道立北方民族博物館がある。アイヌやウィルタなどの少数民族の貴重な民具などを展示するこの博物館に、ゲンダーヌの遺品がある。
樺太時代の写真などがあるのではないか。そんな期待をしていたが、博物館学芸員の笹倉いる美さんは、「そういうものはないのです」と話す。
「シベリア抑留から着の身着のまま、日本にやってきたわけですから」
ゲンダーヌは、稚内にいた兄を頼り北海道に向かう。その後、落ち着いた先が網走だった。少数民族に対する差別は激しく、当初は日本国籍もなかった彼は日雇いの土木作業員として生計を立てるのがやっと。それでも義理の父ら一族8人を樺太から呼び寄せて暮らすようになる。
シャーマン(呪術・宗教的職能者)でもあった義父の北川ゴルゴロが樺太から持ってきた太鼓が北方民族博物館に保管されている。トナカイの革を張り、黒い鳥が描かれたその太鼓からは、えも言われぬ呪術性が感じられる。ゲンダーヌは義父の指導を受けながらウィルタの民具を次々と制作するようになる。自らの文化を伝えるためだ。