それにしてもなぜタイは性転換大国として君臨でき、日本では適合手術=海外で、が常識化したのだろう?
転機は1997年の通貨危機。タイでは〈医療ツーリズム〉による外貨獲得に乗り出し、性転換に関しても手術の数が質に転化する形で技術が蓄積されたという。一方日本では、産科医が男娼に睾丸摘出手術を施し、優生保護法違反で有罪判決を受けた〈ブルーボーイ事件〉(1965年)以来、性転換=違法とのイメージが先行。1998年には埼玉医大・原科孝雄教授が公式に手術に挑み、大阪の〈ペニスカッター〉、和田耕治医師のヤミ診療と併せて注目されたが、原科の退官と和田の死が奇しくも重なった2007年以降、再び空白の時代に突入するのだ。
「『鍵は07年だよ、07年!』と教えてくれたのは原科氏の元同僚でナグモクリニック名古屋の山口悟院長です。日本のジェンダークリニックは『正規ルート』も『ヤミ』もあの時に途絶えてしまったのだ、と。確かにそれを踏まえると、手術希望者が海外に流出するのに合わせてアテンド業が00年代に発芽し、ビジネスチャンスを見出していった流れや歴史のダイナミズムまでが有機的に見えてきました」
坂田氏との出会いを機に、性転換の近現代史をも俯瞰することになった伊藤氏の目は、それでいて個人から離れることはなかった。中でも印象深いのが、〈手術を推奨しているわけではございません〉とHPに謳う、ISK BANGKOKの矢野代表の言葉だ。
彼はかつてFtMの適合手術をタイで受け、戸籍上も男性として就職。だが、朝勃ち云々と〈男同士の話〉になる度に周囲に嘘をつくことになる自分を責め、全てを捨てて日本を出た。アテンド業を始めたのも、〈一番関わりたくないGID(性同一性障害)の手術と関わることが今やるべきことなのかな〉と思ったから。今では誰に対しても〈人として〉関われるようになり、GIDをGIDとしてしか見ないのは実は自分だったと語る彼の言葉は、考えてきた時間の長さと深さを物語るように、聞く者を選ばない表現力と強さを備えていた。