安田優少尉の弟・善三郎氏
そのような“義憤”は、二・二六事件を引き起こした陸軍将校らにも通じるものだった。しかし、1500人近くの兵を動かして帝都の中心部を占拠し、斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監など20人近い死傷者を出した未曾有のクーデター未遂を起こした将校らに対する昭和天皇の怒りと危機感も、過去に例のないものだった。それが、異例の厳しい処罰へとつながっていく。
判決が言い渡される7月5日を前に、将校の家族のもとに急遽、面会を許可する連絡が入った。犠牲になった渡辺教育総監の評伝『渡辺錠太郎伝』(岩井秀一郎著)によれば、渡辺邸襲撃を指揮した青年将校の一人、安田優(ゆたか)少尉(当時24歳/熊本県天草出身)も、最後に家族との面会が許されたという。
同書には、安田少尉の弟・善三郎氏の次のような証言が収録されている。
「父は、その年の5月ごろから東京に出て待機していたんですが、ある日、天草の実家に『7月5日に面会さし許す』という電報が届きました。後からわかりましたが、その日に判決が言い渡されることになっていたんです。そこで、今度は天草から東京の父宛にそれを電報で伝えなくてはいけない。村では電報を取り扱う郵便局がなかったので、急いで隣村まで電報を打ちに行きました。そうしたら、その1週間後の7月12日に今度は東京の父から『優、従容(しょうよう)として死す』という電報が天草に届いた。母ももちろん覚悟はしていたようですが、それを目にしてまた泣き崩れました」