「1993年、9年ぶりに復帰した日本ハムの大沢啓二監督が33歳の広瀬哲朗をキャプテンに指名。5月になると、大沢監督は田中の守備に物足りなさを感じたのかレフトに回し、広瀬にショートを任せた。最初の試合で、広瀬はいきなり猛打賞でチームもサヨナラ勝ち。一塁にヘッドスライディングするなど闘志を剥き出しにする広瀬は、大沢親分好みの“チームを鼓舞できる選手”でした」
大沢監督の起用が当たり、この年の日本ハムは1ゲーム差でパ・リーグ2位と躍進し、黄金時代の西武を苦しめた。広瀬は1993年、1994年とベストナイン、ゴールデングラブ賞を獲得し、1996年までレギュラーとしてチームを引っ張った。
30歳で初めて規定打席に達し、33歳で首位打者、38歳でMVPを獲得した和田一浩は“遅咲き”の筆頭と言っていいだろう。神戸製鋼から1996年のドラフト4位で西武に入団した和田は捕手としてスタートを切った。1年目から一軍出場を果たしたが、黄金時代を築いてきた名捕手の伊東勤に加え、1998年にはオリックスからFAで中嶋聡が移籍。捕手としての頭角を現すチャンスは限られていた。和田は捕手だけでなく外野にも挑戦し、2000年には規定打席不足ながら3割6厘を記録し、翌年は16本塁打と長打もある打者に成長した。
「2002年に就任した伊原春樹監督が和田を外野一本に絞らせ、『5番・レフト』で固定した。この起用法が、和田を完全に開花させるきっかけになったのではないでしょうか。
この年の西武には、王貞治と並ぶシーズン55本塁打を放ったカブレラが4番に座っていました。2001年、3番・ローズ、4番・中村紀洋、5番・礒部公一、6番・吉岡雄二を擁する“いてまえ打線”の近鉄に優勝をさらわれた西武は、カブレラの後を打つ5番打者に苦労した。この年、カブレラは10回敬遠され、その次の打者は8打数ノーヒット(2四球)。8月15日のダイエー戦では、10回表2死一塁で4番のカブレラが敬遠され、途中から5番に入っていた村上嵩幸が打ち取られたこともあった。5番は主に高木大成、マクレーン、鈴木健の3人が務めたものの、求められる役目を果たせなかった印象です」
2002年、和田は115試合に出場。そのうち5番を打った108試合では打率3割1分7厘、31本塁打をマークする。カブレラ敬遠後の『5番・和田』は20打席で17打数6安打の3割5分3厘と期待に応えた。前年の“弱点”を克服した西武は独走し、2位の近鉄を16.5ゲーム離して4年ぶりのパ・リーグ優勝に輝く。和田の打力にかけた伊原新監督の采配が的中した格好だ。