記事には元乗員の生活の様子を伝える写真もふんだんに使われている(『アサヒグラフ』1954年8月11日号)
どうすごくてどんな意味を持つ記事なのか、専門家の意見を伺うとしましょう。1980年代前半に『アサヒグラフ』編集部に在籍し、その後『アサヒカメラ』編集長などを経て、現在は全日本写真連盟総本部事務局長を務める勝又ひろしさんに、記事を読み解いてもらいました。
「クレジットを見ると、アメリカのAP通信が作った記事ですね。売り込みがあったのか、アメリカで先に公開されてそれを編集部が見つけたのか、そこはわかりません。ただ、この1954年は春にアメリカがビキニ環礁で水爆実験を繰り返し、3月には第五福竜丸が被爆してしまいます。日本でも世界でも核兵器への関心がひじょうに高まっていました」
原爆と『アサヒグラフ』といえば、その2年前の1952(昭和27)年8月6日号で、ふたりの新聞記者が撮影した被爆直後の広島と長崎の写真を大量に掲載し、原爆被害の実態を初めて広く伝えたことが知られています。連合国軍(GHQ)の占領が終わったのは、同年4月。ふたりはGHQにフイルムの焼却を命じられますが、ひそかに隠し持ったまま発表できる機会を待っていました。掲載号は大反響を呼び、70万部が発行されたとか。
「投下した側の声が日本のメディアに掲載されたのは、おそらくこの記事が初めてでしょう。記事のトーンは糾弾でも賛美でもなく、生の声にあえて日常の写真を加えることで、彼らが『普通の一市民』であることを強調しています。仮に契約の問題で勝手に写真を差し替えることはできなくても、この記事の後ろに原爆の被害を伝える特集を持ってくるなどすれば、雑誌全体として彼らを『悪者』にするニュアンスにはできたでしょう。しかし、編集部はそうはせず、どう受け止めるかを読者にゆだねました」
12人の乗員は、自分の考えや気持ちを率直に答えています。機長であるティベッツ大佐の「もし爆発が成功すれば、戦争が終わるのだということも知っていた。それが事実だったのは嬉しい限りだ」「こんどまた、原爆を何処かへ運べという命令を受けたら、私は運んで行く」という言葉は、日本人としては穏やかな気持ちでは読めません。そのコメントのすぐ上には、自宅で息子とスクーターの手入れに興じる写真が掲載されています。
ティベッツ大佐は戦後、自宅にサインを求める人が押し掛ける“国民的ヒーロー”でしたが、質問には遠慮がありません。ちょっと意地悪に「日本人の誰かから原爆の感想を聞いたか」と尋ねています。それに対して〈彼は驚いたといった風で、「いいや何にも──、日本人から何の意見も聞いたことはない」と語った。〉とか。
「当時のアメリカのジャーナリストたちは、原爆がどれだけ悲惨な結果を招いたかを知っていたはずです。旬の話題だった水爆も含めて、批判的に見ていた部分もあるでしょう。記事には、まるで日本人が聞いているんじゃないかと錯覚するような、原爆投下への後悔や贖罪の気持ちを言わせようとしている質問もある。聞かれた側も、つまりは『命令されたから行きました』という話で、丁寧に自分の想いを答える必要はないんです。聞くほうも答えるほうも、そのへんがアメリカっぽいですよね」