三木武夫は「何度でも挑戦」の精神で総理の座を得た
その加藤は1999年の総裁選に出馬。小渕恵三に敗れたものの、次の総理のポジションを得た。ところが、小渕が急死すると、密室の話し合いで森喜朗首相が誕生する。不満を持った加藤は、“加藤の乱”を起こすも、党内の支持を得られず失敗に終わる。
その後の加藤と河野の政治家人生は対照的だ。加藤の裏切りで「総理になれなかった総裁」となった河野は森内閣で外相に就任、最終的には三権の長である衆院議長にのぼりつめた。一方の加藤は、秘書スキャンダルで議員辞職に追いこまれた。
今回、総裁選初出馬の岸田、4度目の挑戦で完敗した石破の今後はどうなるか。
「国会議員票を伸ばした岸田氏が次期総裁の有力候補。ただ、もう禅譲の線はない。一人歩きして力を付ける必要がある。石破氏は茨の道になる。しかし、三木武夫は総裁選に3度敗れても『何度でも挑戦する』と意気込み、田中角栄の金脈問題での辞任後、突然首相の座が回ってきた。何が起こるかはわからない」(小林氏)
以下に総理の座を目指しながら、それが叶わなかった政治家4人のエピソードを紹介する。
●渡辺美智雄(享年72)
1991年の総裁選で宮沢喜一、三塚博と争った。最大派閥・竹下派の会長代行である小沢一郎が3人を面接。金丸信、竹下登、小沢の会談でいったんは「渡辺総理」が決まるが、金丸の変心で宮沢が総理の座を射止めた。渡辺は副総裁に就いたが、翌年膵臓がんが発覚。1993年の総裁選では河野洋平に敗れた。1995年9月に死去。
●河野洋平
2003~2009年の長きにわたり衆議院議長を務めた河野洋平氏(写真/AFLO)
自民党が下野した1993年7月、16代総裁に。翌年、自民党、社会党、さきがけの連立政権誕生に尽力。社会党の村山富市委員長が首班指名を受けて与党に復帰したが、自民初の「総理になれなかった総裁」に。その後、歴代最長の約6年間にわたって衆議院議長を務めた。