台湾では、日本による統治が始まった明治28年(1895年)から、霧社事件のほかにも散発的に抗日運動が発生していたが、後藤新平が明治31年(1898年)に民政長官を務めるようになって以降、日本による近代化政策は総じて高く評価されていた。それに比べると、中国大陸での排日・抗日の動きはより懸念すべきものだった。
「満蒙は中国に返すべき」という日本国民の声
渡辺は、目下の難題を前にして、日本国民の危機感の薄さに疑問を投げかける。
〈かくのごとく経済上、民族の感情上の非常に重大な事柄があるのに対しまして、わが国民の一部の者が、初めに私が申しましたように、あまりこのこと[満蒙問題]に熱を持たないのは、果たして何が原因であるか〉
中国における排日・抗日の動きは、両国が干戈(かんか)を交えた日清戦争(1894-95年)を経て、下関条約で台湾や遼東半島の割譲を余儀なくされて以来、幾度となく激化してきた(遼東半島は三国干渉で返還するも、日露戦争(1904-05年)後に再び租借)。
たとえば、満洲事変以前に起きていた主な排日・抗日運動には次のようなものがある。
・1915(大正4)年……山東省のドイツ権益継承や南満洲の租借地・鉄道経営権の99年間延長などを求めた「対華二十一か条要求」に対する反発
・1919(大正8)年……山東省権益継承を認めたベルサイユ条約を拒否する暴動「五・四運動」
・1923(大正12)年……ロシアと清が取り決めた租借期限を機に活発化した「旅順・大連回収運動」
・1925(大正14)年……打倒帝国主義を掲げた上海での労働争議が激化した「五・三〇運動」
・1928(昭和3)年……蒋介石の北伐に対抗するための山東出兵が引き起こした「済南事件」
渡辺が仄聞(そくぶん)した「排日教材」が、実際にどんな内容だったかは知る由もない。それでも、沖縄・朝鮮半島はともかく、台湾や遼東半島、さらに山東省へと支配地域を拡大しつつあった「敵国・日本」を排撃しようする中国側の“復讐心”が、日を追うごとに高まっていたことは間違いない。