数々の大物がくぐった麻布の門
兄と2人で父親から病院を実質的に継いだのが1983年。当時の医師数は16人だったが、いまでは約500人に増えている。
「父はでっかい手術室と病棟を建てるだけ建ててハワイに移住してしまいました。美田どころか大借金を残されましたから、拡大路線をとるほかなかったわけです。バブルのときにはそれで痛い目にも遭いました。すごい病院のように褒めてもらうことも多いですけれど、実際は失敗の連続ですよ」
毎週末が遠足のような中学受験生時代の思い出
ここ鴨川で、江戸時代から300年以上続く医者の家系の次男に生まれた。地元には“いい学校”がないので、父の代までは旧制千葉中(現在の県立千葉中学校・高等学校)まで通う習わしだったが、母方が東京出身の学者家系だったため、隆明さんら兄弟は下宿で東京の学校に通わされることになった。東京教育大学附属(現在の筑波大学附属)が第一候補だったが親元から通える生徒でないと受けられないとわかり、麻布を狙うことにした。
毎週土曜日の学校が終わると、準急に乗り込み東京の両国まで行き、さらに電車を乗り継いで代官山の個人塾まで一人で通った。駅前で、「少年サンデー」と「少年マガジン」と、イカの燻製とジュースを買い込んで、数時間の列車の旅を満喫した。
夜、塾で勉強して、そのまま先生の自宅でもあるその塾に泊まり、翌朝、蛍友会や四谷大塚進学塾でテストを受ける。成績は優秀だったしやんちゃで目立ったので、テスト会場では「あれが亀田くんか!」なんて言われて、女の子からも人気があった。帰りの列車に乗り込む前に、両国駅の立ち食いそば屋でかけうどんを頼む。おばさんがいつも卵をサービスしてくれて、それが旨い。塾通いはまったく苦ではなかった。世間は東京オリンピックに沸いていた。
亀田さんは、母方の親戚の家の離れに二つ上の兄と下宿して、そこから麻布に通った。田舎の小学校ではダントツの一番だったが、麻布にはやっぱりすごいやつらがたくさんいた。勉強だけでなく、音楽もすごいやつ、運動も得意なやつ、絵が得意なやつ……。お互いに「すごいやつがいるものだ」と認め合っていた。
ちなみに同じ塾からいっしょに麻布に進み、いまでも親交が続いているのが丸紅会長の國分文也さんだ。みずほフィナンシャルグループ会長の佐藤康博さんも同級生。いまでも年に4~5回そろって食事に行く。
高1の3学期に東大紛争がピークを迎え、1969年の東大入試が突如中止になった。麻布もその雰囲気に巻き込まれていく。