不完全燃焼の日々で出会った「新宿」
だけど、さらにさかのぼると、芸人として世に出るまでの俺には全く別の感覚があった。それは、「死ぬのが怖くて怖くてたまらない」という思い──言い換えれば、「何もやり遂げないうちに死んでたまるか」という焦りのようなものだった。
最近暇があったらいつも小説を書いているんだけど、このたび本になったのが『浅草迄』だ。俺が浅草にたどり着くまで、新宿あたりでブラブラしたり、タクシー運転手やらのアルバイトで食いつないでいた頃を書いている。
足立区の下町で過ごしたガキの頃や、フランス座で師匠の深見千三郎さんたちと過ごした浅草時代については、いろんなところで話したり書いたりしてきた。だけど、高校から大学にかけて、とくに浅草に行き着くまでの時代は、これまでしっかり話したことがなかった。
それはやっぱり人生で一番悶々としていた時期だったからだろう。さっき話したように「死ぬのが怖い」と考えていたのが、まさにこの頃だった。
高校生活は、自分のせいと言ってしまえばそれまでなんだけど、何も考えることなく、ただダラダラと学校に顔を出すだけの日々だった。
都立高校だからそんなに馬鹿でもないけれど、とはいえ東大京大など国立のいい大学に入った利口な奴は誰もいない。俺は相変わらず勉強そっちのけで遊んでばかりいた。
じゃあ大好きだった野球に打ち込んだかといえば、そっちも中途半端だった。野球少年の夢といえば甲子園を目指すことだけど、俺の高校の野球部は硬式ではなく軟式で、みんな下手だったし、たいした達成感も思い出もないまま終わってしまった。
で、その不完全燃焼は大学時代も続いた。
何とか入った明治の工学部は、俺の時代からお茶の水の駿河台ではなく、神奈川県の生田の新校舎に移っていて、足立区の実家から2時間かけて通わなければならなかった。毎日こんな思いをして学校に通うのかと、初めの一週間で嫌気が差した。
母ちゃんが「これからの時代はエンジニアだ」というから工学部に入ったけれど、自動車メーカー志望の同級生が教室で話している「○○が開発したエンジンはすごい」なんていう話にはまるで興味が持てなかった。
普通に仕事をして、給料をもらって、家庭を持って──高度経済成長のこの時代、日本中がみんなそういうステレオタイプな「幸せ」を目指していたし、俺自身も「おふくろ」というフィルターを通して、それを強要されていた。だけど、どうもその流れに馴染めずにいたんだよね。
そんなとき、何より魅力的に映ったのが「新宿」という街だった。ジャズだったり、寺山修司の天井桟敷や唐十郎の紅テントだったり、横尾忠則の絵だったり……。その時代の新しい文化みたいなものが芽生えてて、ガツンと洗礼を受けた。
大学に行くには新宿駅で小田急線に乗り換えなきゃいけないんだけど、1年生の夏休みが終わる頃には、ジャズ喫茶に入り浸って、もう新宿より先にはほとんど行かなくなっていた。そこで見聞きする色々な新しいことに影響されては、どこかで聞きかじった浅い知識を蓄える毎日だった。