「ぐるなび」の創業者で、今も会長を務める滝久雄氏(時事通信フォト)
太平洋戦争前夜の1940年2月、東京生まれ。都立小山台高校から東京工業大学理工学部機械工学科に進み、1963年4月にいったん三菱金属(現三菱マテリアル)に入社するが、1967年6月には実父の冨士太郎が経営していた「交通文化事業株式会社」(現エヌケービー)に入社する。2代目経営者であり、日本交通文化協会も父親から引き継いだ財団法人である。古くから滝を知るある実業家はこう説明してくれた。
「交通文化事業といえば何となく聞こえがいいけど、事業は鉄道の駅にある広告看板の製作および設置でした。父親の冨士太郎が、わけても旧国鉄時代からJR東日本に食い込んできた。駅ナカにあるベンチの背に金属製の看板があるでしょ。牛乳とか、石鹸とか、そんな看板広告を一手に引き受けていたんです。その事業を引き継いで大きくしようとしたのが、息子の久雄だったわけです」
滝は1975年にエヌケービー専務となり、父親の死後1985年には社長に就任し、名実ともに会社を切り盛りしていく。JRの広告事業とともに会社も大きくなっていった。そして、JRの事業が縁で菅と知り合ったようだ。
横浜市議時代からの縁
菅はといえば、滝がエヌケービー専務となるより一足先の1975年4月、神奈川県横浜市を地盤とする自民党衆議院議員の小此木彦三郎事務所入り。それが政治家としての原点である。
菅が秘書として仕えた小此木は横浜市議から国政に転じ、運輸政務次官や衆議院運輸委員長などを歴任し、中曽根康弘の腹心として行政改革や国鉄分割民営化に取り組んだ。国鉄長期債務特別委員長を務め、安倍晋太郎派の三塚博や加藤六月らとともに「国鉄三羽烏」の異名ととった中曽根派の大物運輸族議員である。
菅は1975年から10年あまり小此木事務所で働いた。その頃、小此木の秘書は7~8人おり、それぞれが旧国鉄、私鉄各社の担当となってきたという。折しも菅の小此木事務所時代の後半は、旧国鉄が分割民営化を控えていた頃であり、本人はのちのJR東日本の担当秘書となる。菅自身、そこから頭角を現していく。