2月7日に最終回を迎えるNHK大河ドラマ『麒麟がくる』。クライマックスが迫るなか、物語の結末を左右しかねない驚きの新事実が明らかになり、歴史ファンを騒然とさせている──。
「敵は本能寺にあり!」。そんな掛け声とともに、明智光秀が本能寺に滞在する主君・織田信長を急襲──これが広く知られる「本能寺の変」のクライマックスだ。主人公・明智光秀の最大の見せ場だけに、『麒麟がくる』ではどう描かれるのか、視聴者の注目が集まっている。
そんななか、1月4日付の朝日新聞に驚きの記事が掲載された。光秀は「本能寺に行っておらず、謀反を部下に実行させていた」という記述が史料から新たに発見されたというのだ。
その史料は、石川県金沢市に現存する古文書『乙夜之書物』。そこには「光秀ハ鳥羽ニヒカエタリ」との記述があった。つまり光秀は本能寺から8kmほど離れた鳥羽(京都市南部)にいたと書かれていたのである。
この新発見をした富山市郷土博物館の萩原大輔・主査学芸員が語る。
「『乙夜之書物』は、本能寺の変から87年後の江戸時代に、加賀藩の兵学者・関屋政春が記したものです。本能寺を奇襲した光秀の重臣・斎藤利三の三男で、自身もその作戦に加わっていた斎藤利宗が、加賀藩士の甥に語った証言として記述されている。核心情報を知り得る人物が情報源であり、後世に加筆された形跡もなく信憑性は極めて高い」
本能寺に光秀がいなかったとすれば、どのような状況だったと推測されるのか。
「当時、信長の三男・織田信孝が四国討伐軍を率いて大阪に駐屯していました。本能寺で討ち逃した場合、信長が信孝のもとに逃げる可能性が考えられる。それを見越して光秀は(通り道となる)鳥羽に控えていたのではないか」(前出・萩原氏)
そうだとすれば、本能寺の変は光秀の突発的行動ではなく、綿密な計画のもとに実行されたものだったということになる。