さて、寛容という規範について考えてみよう。これは、憲法や国際的宣言にもしばしば登場する大きな規範、いわば「全称的規範」ということになる。一方、小さな、部分的な規範も存在する。「早起き励行」などその一例である。勤め人や児童生徒などは早起きが励行されるべきだが、私などは九時前に起床したことがない。近所の新聞配達所の店主は、毎日十二時起きです、と言っている。もちろん深夜の十二時である。そうであれば、早起き励行が国際的規範になることはない。対するに、寛容はパラドックスが生じるような全称的規範になっている。
森本あんりは二月二十八日付産経新聞に寄稿し、「寛容は是認でも理解でもない」「是認できなくても、相手を拒絶せず」。「われわれにできるのはそこまでなのである」としめくくっている。
同じことは、自由、平等、人権についても言える。これだって全称命題のパラドックスが生じる。自由を否定する自由、平等に不平等を主張する権利、反人権の人権。「我々」からも「彼ら」からも「できるのはそこまで」なのか。
【プロフィール】
呉智英(くれ・ともふさ)/1946年生まれ。日本マンガ学会理事。近著に本連載をまとめた『日本衆愚社会』(小学館新書)。
※週刊ポスト2021年3月19・26日号