研究がうまくいかない時期にミステリーばかり読んでいた
小説の中では、いきづまった人たちのために、状況に風穴をあけるなにかが用意されているが、すべてをすっきり解決するようなものではない。
「科学と出会って、ものの見え方が変わったとしても、おそらくその人の人生は激変しないと思います。だけど、次に踏み出す一歩は、前とは違っているんじゃないでしょうか。それぐらいの終わり方がぼくは好きで、あとは読む人に任せるようにしています」
科学を題材にした小説は、SFとしてこれまでにもたくさん書かれているが、伊与原さんの『八月の銀の雪』や、前作『月まで三キロ』は、SFのくくりには入らず、もっと日常的な生活で科学との出会いを描く新しいタイプの科学小説である。
「デビュー以来、科学をトリックのネタに使ったり、トリビア的に使ったりしてきたんですけど、前作と今作は、それとは違い、科学や自然の現象を、人間の心の中に照らし合わせて、その人自身が変わっていく、というものなので、確かにこれまであまりなかったかもしれないです」
ミステリーもスケールの大きな話もまだまだ書きたい
もともとミステリーが好きで、2010年に横溝正史ミステリ大賞を受賞して作家デビューした。
「富山大学で教員をしていたんですけど、研究がうまくいかない時期がありまして、実験のあいまにミステリーばかり読んでいたんです。そのときにふとトリックを思いつき、自分にも書けるんじゃないかと思って書いてみたのが応募作です。研究がうまくいってたら書いてないので、あんまりきっかけはポジティブではないです」
ミステリーというジャンルを離れて『月まで三キロ』を書いたのには編集者の助言があった。
「どんでん返しとか衝撃の展開とか、読者を驚かそうということばかり考えて、ぼくが『できてない、できてない』と言うのがつらそうに見えたらしくて、そこを一回離れて、ふつうの小説を書いてみませんか、って言われて書き始めたのが『月まで三キロ』の一篇です。肩の力を抜いてと言われ、でも小説の中で何も起きないというわけにはいかず、大変なことは大変でしたけど」
すれ違った家族への思いを描いた表題作をはじめ、『月まで三キロ』への読者からの反響は大きく、新田次郎文学賞を受賞した。
「ぼく自身、家族小説ってまず手にとらないタイプだったので、自分にこういう作品を書けるなんて思ってもいなかったんですけど、書いてみたら書くことがあるんだな、というのが意外でした。ミステリーでは大学の中のちょっと浮世離れした世界の人を書いていたのが、ふつうの人のふつうの悩みを書き、それがいいと言ってくれる人が多いのは驚きで、自分の好みとは関係ないんだなと思いました」