「私は中性的な顔をしているのですが、お前は女みたいな顔をしているからな、と笑われて終わり。友人なんか『俺も痴漢されたい』と言ってみんなでどっと盛り上がる。本当に悩んでいたのですが、真面目に取り合ってくれない。女性の被害にはみなさん注目してくれるのに、それが男だと笑われるばかり」(森田さん)
森田さんが本格的に危機感を持ったのは、昨年秋、社内の飲み会で泥酔して以降。気がついたら男性の先輩と一緒にビジネスホテルのベッドに横たわっていたのである。
「先輩はバイセクシャルを公言している既婚者でした。社内報でもLGBTへの『理解が拡がるように』とコラムを書いていますが、彼は酔った私に乱暴したんです。別の上司にこのことを訴えましたが『あいつに逆らうと面倒だぞ』というばかりで、相談にも乗ってくれないし、あいつ(先輩)にも家庭があるからそれを壊すようなことをするな、と逆に私に非があるような言い方までされました」(森田さん)
森田さんのケースは、被害者が男性というだけでなく、性的マイノリティだと公言している人が加害者だったため、事態をさらにややこしくさせた。セクハラだろうがパワハラだろうが、ハラスメントについては、どんな属性であるかに関わらず、誰もが被害者と加害者のどちらにでもなる可能性を持っている。ところが、その人の属性によって加害の罪を問われにくくなったり、被害があることをなかなか認めてもらえない現実がある。森田さんの場合は、性的マイノリティに対して加害者としての責任を問いづらいという心理的な壁が、被害を闇に葬る力となってしまった。
また、男性であれば普通は被害に遭わない、その前に力の限り抵抗して反撃までできなくとも、逃げることくらいできるはずだという思い込みも持たれやすい。つまり、被害に遭っているのに多少は同意があったのではないかと疑われるのだ。
女性が被害に遭ったときにも同じように言われることも多いが、先に攻撃することに比べて抵抗や反撃、逃亡は難しいことを無視しているという他ない。人間が恐怖を感じた時も「冷静に対応できるはず」だし、対応できない方がおかしいという考えが蔓延っていることの証左であり、命の危険を感じる場面ではなおのことだ。
ハラスメントについては、誰もが被害者と加害者、どちらにでもなる可能性を持っている。その人の属性に関わりなく、誰にでもあり得ることなのだ。その前提を忘れて「男らしさ」の罠にはまり、被害が無かったことにされるのは、あまりに理不尽ではなかろうか。声を上げづらい男性が受ける被害についてもメディアや世論が議論する日が来るのか。その日を待ちわびているという人は、意外と少なくないのかもしれない。