横浜は森繁和、辻発彦というコーチを残留させ、2003年は山下大輔新監督でスタートを切った。しかし、5位の広島にも22.5ゲーム離されるぶっちぎりの最下位に終わる。オフに2人のコーチは横浜を去り、森繁和は落合博満監督が就任した中日の投手コーチとなり、黄金時代の立役者の1人となった。
「本当にチームを強くしたいなら、ドラスティックな改革が必要です。落合監督時代の中日がまさにそうでした。1年目から森繁和、石嶺和彦という中日と縁のない人物の指導力に目を付け、入閣させた。この年に優勝したことで、落合監督の発言力は増していき、生え抜きのコーチがさらに減っていきます。球団OBの中には不満を抱える人もいたようですが、チームは強くなっていった。
一方、横浜は毎年Bクラスを続けているのに、生え抜きコーチが大半を占めていた。生え抜きが悪いわけではありませんが、弱い時代ばかり経験してきた選手がコーチになっても、チームの体質は変わらない。長年の低迷の原因は、そこにもあったと思います」
森祇晶以降の指揮官を見ても、監督が望むコーチは1~2人程度しか入閣しておらず、Bクラスになっても同じような生え抜きコーチ陣で戦う年も多かった。この環境は、他球団から来た“外様監督”には特に厳しかった。2005年の牛島和彦監督は吉田篤史投手コーチ、福澤洋一バッテリーコーチ、2010年の尾花高夫監督は島田誠ヘッドコーチ、岡本克道投手コーチ、2012年の中畑清監督は高木豊ヘッドコーチ、二宮至外野守備走塁コーチを呼び寄せた程度だった。
「中畑監督の1、2年目は実績のあるコーチもいたが、球団の懐事情が関係したのか、3年目以降は現役引退直後のコーチも目立ちました。若い指導者を据えることは悪くないが、全体的なバランスを考えるべきでした」
2016年に就任したラミレス監督は自分の腹心のコーチを入閣させられず、コーチとの軋轢も目立った。それでも、自分の意思を通して斬新な作戦を繰り返し、5年でAクラス3回と、これまでの横浜からしてみれば特筆すべき成績を残した。