脚本家の坂元裕二とは3度目のタッグ(時事通信フォト)
居なくなった人を思い出す。その人の体はたしかにこの世から消えた。しかし、存在も無くなってしまうのか、それとも続くのかという問いかけ。例えば 『まめ夫』で突然、画面からいなくなったのがとわ子の親友・かごめ(市川実日子)でした。死亡したことはわかっても死因すら説明されず。あまりの唐突な死に視聴者は驚かされた。いきなりかごめが消えた時、「また幽霊として出てきて物語に関わるのでは」と予想するファンも出てきました。
しかし、直接的に登場しなくてもいいのです。かごめへの想いを田中八作が抱え続けて不在に苦しんだり、とわ子がかごめの思い出と共に日常を生きていたり。幽霊設定はなくても「思い出す」という行為があれば、それは共にあるということ--坂元氏が繰り返し描き出してきた世界観でしょう。
余韻を残したセリフをもう一つ。小鳥遊大史(オダギリジョー)が語った言葉です。
「人生って小説や映画じゃないもん。幸せな結末も哀しい結末も、やり残したものも無い。あるのは、その人がどういう人だったかということだけです」。最終回を見終わって、やはりこのドラマは「その人がどんな人だったか」ということを丁寧に克明に浮かび上がらせる仕掛けだったのだ、と膝を打ちました。
最終話、とわ子は4度目の結婚に踏み切らず1人で生きていく。元夫3人との関係も続く。あっと言わせる派手なオチは無い。ただ、一人一人がどんな人なのかが、他の人との関係の中からくっきりと浮かび上がってきて、それが温かくて心地よい。
「個人の多様性みたいなことをコツコツ描くことで、ほんのちょっとでも自分と社会との関係がラクになれたって人がいたらいいな」(『脚本家 坂元裕二』)と自分のやるべきことについて語っていた坂元氏。筋を追いかけるストーリー性に依存しないドラマが日本に一つくらいあってもいい、そう納得させられた作品でした。
常にはみ出していくものを抱きしめながら人は生きていく。いなくなった者と暮らしたとしても、哀しいだけとは限らない。人は、人と人との関係の間にある。人は一人では生きられない。このドラマが残してくれたものが余韻となって今も響いています。