戦争の記憶をはっきり残し、焼け野原からの復興と高度成長期のニッポンを牽引したのが「昭和ヒトケタ」世代だ。自らの力で前を向き、上を向いて生きていこうとした彼らは、後の世代にどんな教えを残したのか──。(文中一部敬称略)
“一人の俳優が演じた最も長い映画シリーズ”としてギネスブックに載る『男はつらいよ』。昭和3年に生まれた主演の渥美清(1996年没、享年68)は病弱な幼少期を過ごし、空襲で自宅を焼失。戦後は工員として働きながらテキ屋の手伝いをし、浅草のストリップ劇場の専属コメディアンとなる。寅さんの舎弟・源吉を演じた佐藤蛾次郎が語る。
「映画では『源公』、私生活では『蛾次郎』と呼ばれていたけど、本当に兄貴と舎弟みたいな関係だった。『おい蛾次郎、メシ行くか』って俺の行きたい店に連れていってくれる。渥美さんが全部払ってくれるから、自分じゃ行かないような高い寿司屋もよくねだった(笑い)。俺は酒もガブガブ飲んでたけど、渥美さんが飲んでる姿はあまり見たことがないなぁ」
小さなスナックでの、こんなエピソードも。
「渥美さんが『仁義を切ってやるから、“男はつらいよ”を歌え』って言う。本当に腰を落として『あたくし、生まれも育ちも葛飾柴又、帝釈天で産湯を使い……』ってやってくれてね。続けて俺が『どうせオイラは~』って歌ったら、お客さんは大喜び。渥美さんを知る人は『絶対に嘘だ、渥美さんはそんなことしないよ』って言うんだけど、本当なんです。もう40年も前のことだけど」(佐藤・以下同))
渥美が佐藤や山田洋次監督、「さくら」役の倍賞千恵子、スタッフ数人を誘い、約1週間のタヒチ旅行に繰り出したときは、飛行機代も宿泊代も渥美持ちだったという。
「誰に対しても偉そうにしない。絶対に遅刻はしないし、真面目だし、常に優しい。一番覚えているのは『優しくしろよ』っていう言葉。ファンにも女房にも、優しくあれということだね」
渥美の3歳下の山田監督は、2歳のときに満州鉄道勤務の父親の仕事で満州に渡り、そのまま終戦を迎えて、47年に引き揚げてきた経験を持つ。
東大法学部卒業後、松竹に入社。監督デビュー後は「家族」や「絆」をテーマに描いてきた。