1980年5月16日、内閣不信任案が可決された日も、母によれば帰宅した祖父は憮然として着物に着替えると、書庫に入って黙々と棚の本を動かしていたそうです。心の乱れを整理するかのように。
選挙戦に入り5月30日の公示日になると祖父は5か所で街頭演説を行ないましたが、不調を訴えて夕方6時に帰宅しました。かかりつけ医に心筋梗塞の疑いがあり絶対安静が必要だと診断されました。祖母(大平志げ子さん)が私に「もしかしたらお父さんの命が危ないって先生がおっしゃるのよ」と伝えました。
その時、大平家に他に家族はおらず、前の官房長官の田中六助さんが浴衣姿で駆け付けてきて密かに入院の手はずを整えました。そして、香川から帰ってくる父を、私は自宅前の道路で待っていた。一刻も早く事情を知らせなければという思いでした。23時に父がタクシーで帰ってくると、暗い道路でじっと佇む私の姿を見て、祖父が倒れたことを悟ったようでした。家の灯を消し、総理番記者が帰るのを待ってから祖父をタンカに乗せて病院に向かいました。
その前夜、香川の選挙区を取り仕切っていた母は、香川に向かう際に「お父さん、芳子は明日から選挙区に帰るからね」と言い、祖父は「よろしく頼む」と答えていた。それが私が聞いた祖父の最期の言葉です。
翌日に祖父が入院することになっても母は戻りませんでした。祖父の盟友・田中角栄さんから「芳子ちゃんが東京に帰ってくるとオトウチャンの容態が悪いと新聞に書かれちゃうから、可哀想だが上京は我慢してくれ」と電話があったからでした。そうして祖父は病院で「芳子には苦労を掛ける」と口にしたのを父が聞いたそうです。それが本当の最期の言葉だったかもしれません。
※週刊ポスト2021年8月20日号