乱世を生きるには〈悪とは何かを充分に知りながらも善人である必要〉があるが、その興家に家督が移る隙を同じく浦上家配下の島村盛実に突かれ、能家は島村と結託した弟に城を奪われる形で死亡。敗走した興家は妻女や嫡男八郎(直家)共々、鞆まで落ち延びた。この時、八郎の利発さに善定が着目し、だからこそ一家の面倒まで見たというのが、垣根氏の見立てだ。
「幾つかポイントを言えば、直家は5、6歳で善定宅に引き取られ、12歳まではいたらしい。その間に善定の娘が直家の異母弟を2人産み、母親はお家再興を頼むべく浦上家に出仕。興家は無為のまま自死した。継母とは相当に折り合いが悪かったらしく、12歳で伯母の尼寺に転居した。
それでも善定とは良好な関係が続いていたはずで、それから約30年後、直家は石山城下で最もいい土地を、善定と手代の源六に与えている。ちなみに源六、後の魚屋九郎右衛門の養子が、小西行長で、善定が直家を見出したのと同様、直家もまた行長を見込んで武士に取り立てる。少なくとも善定が何を見て宇喜多家の世話を焼いたかといえば、愚鈍で人がいいだけの父親より、幼少期から物事の理に聡かった直家に希望を持って支援したと考える方が自然ですよね」
人間の好みは大抵10代で型が出来る
中でも出色は、元は美作の地侍の娘だったが、諸々あって今は西大寺に小さな店を構える、訳ありな年上女性、〈紗代〉との関係だ。〈もし私でよろしければ、八郎殿を男にして差し上げましょう〉と言って奥義を仕込む彼女との逢瀬が彼の心身を覚醒させていく様を、垣根氏は濃密かつ具体的に描き、本書の約3分の1を占める少年期を締め括る。
「歴史小説でこうも性描写が続くのかって、連載中も結構苦情は来たらしい(苦笑)。ただしこの紗代との関係が、後々お福という、連れ子までいる後家を直家が娶ったことの説得力になるだろうという逆算から、僕は一連の性描写を書いたんですね。
彼は一度、中山信正の娘、奈美と政略結婚させられている。その岳父を結局は敵に回し、奈美と別れてから妻帯しなかったのも、たぶん最初から利害ありきの武門同士の婚姻に懲りたんだと思うんですよ。
その直家がお福と再婚したのは、単に好きになったからとしか考えられないし、大抵人間の好みは10代で型が出来る。逆にその型がない人間ほど、もっと美人で若い子がいいとか、欲望のインフレーションを起こす。が、直家は違う。そういう精神のモダンな部分も、書きたかったことの一つですね」