三密が避けられることもあって、令和の世ではゴルフが再ブーム。そして、昭和の時代もゴルフは大人気だった。作家・城山三郎さんは、文壇のコンペで80前後のスコアでラウンドする腕前の持ち主だった。ホームコースは会員が300人しかいない超名門「スリーハンドレッドクラブ」。そこで一緒にプレーした時の思い出を作家・江上剛氏が明かす。
* * *
城山先生に連れて行っていただいた「スリーハンドレッドクラブ」で、スタート前にキャディバッグを見ると、クラブにカラフルなヘッドカバーがついていたんです。イメージと少し違ったので、私が「華やかですね」と言うと、城山先生はキャディさんたちのほうを見ながら「君たちからのプレゼントなんだよね」ととても嬉しそうな顔をされていました。
奥様を亡くされた城山先生を元気づけようと考えたキャディさんたちからの贈り物だというのですが、彼女たちは「城山先生は人気者ですから」と笑顔で説明する。そのやり取りを見ているだけで、城山先生が〝愛されるゴルファー〟であることが私にもよく分かりました。
ティショットを打ってプレーが始まると、カートには一切乗らない。超名門クラブだけあって、メンバーにはご高齢の方が多くて、ほとんどの人がカートに乗るそうですが、城山先生は例外でした。斜面だろうが、アップダウンがあろうが、ずっと歩いておられた。「健康のためだから」と特別なことではないといった様子でしたが、「足が痛くても、疲れていてもカートには絶対に乗らないんだよ」とおっしゃっていました。
〈超名門だけに、何度か一緒にラウンドするなかで江上氏は思わぬ〝大物〟にも遭遇したという〉
一度、都知事時代の石原慎太郎さんが前の組でプレーされていたことがありました。カートを勢いよく飛ばしてひとりでラウンドしていた。城山先生とは対照的なスタイルでしたね。
城山先生とはプレー中はあまり会話をしませんが、ホールアウト後はレストランで先生が好きな赤ワインを飲みながらいろんな話をしました。当時の社会問題であったり、小説の話だったり。たまたまその日は城山先生が「(石原)慎太郎がひとりで来ているから呼ぼうか」と言って、声を掛けると石原さんがやってきたんです。