『プカプカ』で歌われている女性のモデルとされるジャズシンガーの安田南(撮影/井出情児)
最初にザ・ディランIIが出したシングル盤の歌詞カードには、『プカプカ』というメインタイトルだけが書かれていた。次に発表されたLPアルバム『きのうの思い出に別れをつげるんだもの』に収録されたこの曲には「みなみの不演不唱」というサブタイトルが付けられた。ここにある「みなみ」は安田南の名前に掛けていると考えられる。
ところが、さらに半年後に西岡恭蔵自身が出したデビュー・アルバム『ディランにて』のライナーノーツでは、サブタイトルが新たに「赤い屋根の女の子に」と書き換えられているのだ。「赤い屋根の女の子」は歌詞に一言も出てこないから、いかにも意味深である。中部氏によれば、
「最初の頃に歌われていたバースでは、『おいら』が『風来坊』になるきっかけとなった『いかしたあの娘』との具体的な関係が綴られているのですが、その後に定番となったバースでは抽象的な印象に変わっています。それは、西岡恭蔵自身の精神的な成長とも関わっているように思えます」
先の評伝では、「俺のあん娘」のモデルとなったもう一人の「赤い屋根の女の子」の存在を突き止めている。そして、大阪生まれのその女性からこんな証言を引き出している。
「『冬の雨の相合い傘さ』と聴いたとき、ああ、これは私たちふたりの歌やと思いました。『冬の雨の相合い傘』を知っているのは私と恭蔵だけですから」
だが、二人は付き合って早々に別れることになってしまったという。
『プカプカ』は、大学入学を機に大都会・大阪へ出てきた西岡恭蔵が初めて失った愛の鎮魂歌なのだった。
かけがえのない伴侶を失って
それでも、物語はそこで終わらない。
ファースト・アルバム『ディランにて』を出して間もなく、西岡恭蔵は作詞家のKURO(田中安希子)と結婚する。それから二人はアメリカやカリブ海、アフリカなど世界中を旅しながら、まさに二人三脚でたくさんの歌を紡いでいく。
矢沢永吉の古くからのファンであれば、「西岡恭蔵」の名前を作詞家として記憶しているかもしれない。矢沢永吉がソロ活動を開始した1970年代後半から1990年代初頭まで、西岡恭蔵は30曲以上の歌詞を矢沢に提供しているからだ。
『黒く塗りつぶせ』『古いラヴ・レター』『RUN&RUN』『A DAY』『あ・い・つ』などがそうだが、その中でも印象的なのは、「タオル投げ」で知られる『トラベリン・バス』だろう。
矢沢永吉への歌詞の提供は、やがてKUROとの共同作業になっていく。西岡恭蔵とKUROの二人は、夫婦としてだけでなく、歌づくりにおいても、かけがえのない唯一無二のパートナーだったのだ。
ところが、予想もしない悲劇が二人を襲う。KUROに乳がんが見つかり、懸命に闘病を続けたにもかかわらず、1997年4月に46歳という若さで亡くなってしまうのだ。そして、その三回忌に合わせるように、西岡恭蔵もまた、1999年4月に世を去ることになった。前述の評伝では、そんな二人の最期に関する経緯も詳しく明かされている。
『プカプカ』が生まれてからちょうど50年──。それだけの歳月を経てもなお人々に愛され続けているのは、この歌が時代も世代もジェンダーも乗り越えた、究極領域のラブソングだからだった。
(敬称略)
※週刊ポスト2021年11月19・26日号