今でもテレビで取り上げられる。バッターは高橋由伸(時事通信フォト)
藤井は1999年、ヤクルトに逆指名で入団。2年目の2001年に14勝をマークして最多勝を獲得し、チームも日本一に輝いた。1年目は31試合すべて救援登板だったため、この年は先発転向して初めての年だった。無我夢中で駆け抜けた1年だったが、本人の想像を超えて大きな波紋を広げた試合があった。
2001年5月22日の巨人戦(東京ドーム)。ヤクルトが7点リードの9回表に「事件」は起きた。2死走者なしで打席に入った藤井が振り抜いた打球は高く弾んで遊ゴロに。懸命に走ったがアウトになった。すると、一塁ベースを駆け抜けた藤井に巨人ベンチから怒号が飛んだ。大量に点差がある中、全力疾走が侮辱とみなされたのだ。想像もしていなかった出来事に藤井は驚いた表情を浮かべ、「すいません」と頭を何度も下げた。表情が強張り、涙ぐむ。明らかに動揺していた。
9回裏のマウンドにそのまま上がったが、心は乱れたままだった。先頭の江藤智に本塁打を浴びると、続く松井秀喜、清原和博に連続四球、高橋由伸の背中に死球を当てた。交代を告げられると、うつむいたまま三塁ベンチに。守護神・高津臣吾がピンチを切り抜けたが、藤井は試合後のインタビューを拒否した。
「球界の『暗黙の了解』というのを知らなくて。打ってしまって申し訳ないという気持ちで涙が出てきた。マウンドに上がっても前が見えなくて。ボロボロでしたね。翌日に巨人ベンチに謝りにいこうとしたら、先輩たちに止められました。『泣くことはないだろ』って言われて」
マウンド上で流した涙は大きな反響を呼んだ。ヤクルトファンから藤井に対する激励のメール、電話が球団事務所に連日殺到する事態に。登板から1週間の調整期間は「打たなきゃよかった」という後悔に苛まれたが、同時に「次は絶対に勝たなきゃだめだ」と強い危機感が身体を突き動かした。時間は待ってくれない。因縁の対決となった5月30日の巨人戦(神宮)で8回途中無失点と完ぺきな快投を見せ、打撃でも2回に先制適時打、7回にダメ押しの適時打と投打にわたる大活躍だった。
「この試合が自分の野球人生のターニングポイントだった。もし負けていたら本当に心が折れていたでしょう。現役生活はもっと短かったと思います」
縁とは不思議なものだ。この9年後、巨人でプレーしている。「元木(大介)さんや他の先輩方にこの件をいじってもらいました。今はいい思い出ですね」と穏やかな笑みを浮かべた。