アドルフ・ヒトラー(写真/AFLO)
ヒトラーの演説を激減させた
ヒトラーには、政策面での功績がほとんどありません。よく例に出される高速道路アウトバーンの整備も前政権時代からの引き継ぎですし、「大きな雇用創出効果があった」というのも俗説です。
それでも支持を集めたのは“この人なら何かを変えてくれる”という期待を持たせ続けたから。険しい表情でまくし立てる演説が“ドイツの自信を回復させてくれそうだ”と大衆に受け入れられました。当時の新興メディアであるトーキー映画を利用したヒトラーは、今風に言えば、“YouTubeでバズったインフルエンサー”といったところでしょうか。
そのヒトラーが早くから脅威として捉えていたのが、喜劇王・チャップリンです。
ナチスドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まるのは1939年9月のことですが、メディアを舞台にしたヒトラーとチャップリンの闘いは1920年代半ばから始まっていました。
ナチスはチャップリンはユダヤ人であるとの疑いをかけ、バッシングを展開。1936年にはすべてのチャップリン作品を国内で上映禁止にしました。
一方のチャップリンも新しいリーダーとして人気を博したヒトラーの危うさに、いち早く気づいていました。
「この男を笑いものにしなくてはならない」
そう確信して、映画制作に取り組むのです。
〈2人の闘いのクライマックスが、1940年の映画『独裁者』の公開だった。チャップリンは、独裁者ヒンケルとユダヤ人の床屋の2役を演じ、第二次大戦下における独裁者の狂気とユダヤ人の苦境を生々しくもユーモラスに描いた。〉
ヒトラーを模した映画制作の噂を聞きつけたナチスは強く反発し、当時はまだ対独参戦に反対の世論が強かった米国内でも逆風が吹きました。
圧力や妨害のなか、『独裁者』を制作したチャップリンは、映画のなかでヒトラーを徹底してパロディ化します。