鮮烈な印象を残すのが、「デタラメ演説」のシーンです。チャップリンはデタラメなドイツ語を駆使して、独裁者のスピーチを徹底的に面白おかしく演出しました。映画は世界的な大ヒットとなり、それまで“強くてカッコいいもの”だったヒトラーの演説のイメージが、“笑えるもの”に塗り替えられたのです。
極貧地区に育ったチャップリンが生きる糧としたのが「笑い」です。
映画の制作過程の全フイルムを確認すると、チャップリンは何度も撮り直し、ギャグや笑いを洗練させています。「狂気の時代においては、笑いこそが安全弁になる」との確固たる思いを胸に、全世界をひとり残らず笑わせようとしたのです。
チャップリンは信念を貫き、「笑い」の力でヒトラーとの闘いを制します。
『独裁者』が公開された後、それまで大観衆を前に1日に3回も4回も演説を行なっていたヒトラーがスピーチする回数は激減します。部下ゲッベルスの日記によると、戦況が悪化するなかでヒトラーは「演説する内容がない」と言って引きこもったそうです。そもそもユダヤ人を迫害することには何の正当性もなく、「イメージ」という武器を奪われると、ヒトラーの演説には何も中身がなかったわけです。
1945年4月にヒトラーは自殺し、ナチスドイツは降伏します。しかし、それよりも前に映画『独裁者』で世界中の笑いものにされ、ヒトラーはリアルな戦場の敗北に先んじて、メディアという戦場から撤退させられたのです。
「チャップリンの作り出したイメージ」は強力でした。現在、私たちはヒトラーに対して“チョビ髭の小男”というイメージを持っていますが、実物は身長175cm、晩年は体重100kgを超えた大男。チャップリンによって、イメージが塗り替えられているのです。
(後編につづく)
【プロフィール】
大野裕之(おおの・ひろゆき)/1974年大阪府生まれ。脚本家、日本チャップリン協会会長。京都大学大学院人間・環境学研究科後期博士課程所定単位取得。専攻は映画・演劇・英米文化史。著書『チャップリンとヒトラー』でサントリー学芸賞芸術・文学部門受賞。脚本・製作を担当した映画『太秦ライムライト』で、第18回ファンタジア国際映画祭最優秀作品賞。
※週刊ポスト2022年5月20日号