堀内監督は「とにかく内海をマウンドに立たせる」
2004年、社会人出身の即戦力と期待された内海はわずか3試合の一軍登板に留まった。翌年、堀内監督は開幕2戦目の広島戦の先発に内海を指名。4回5失点という結果に終わったが、2度目の先発でプロ初勝利を挙げ、4月だけで3勝をマークした。
「それでも5月以降は中3日で先発した6月12日の西武戦に勝っただけ。シーズンを通して4勝9敗、防御率5.04に終わりました。自由枠で入団した社会人出身の巨人のドラフト1位ですから、活躍して当然のように思われる。しかし、2年目までは期待に応えることはできなかった。自分を使ってくれた堀内監督に報いることができず、内海には忸怩たる思いがあった。それも3年目以降の活躍につながったでしょうし、2年目の経験が間違いなく生きました」
堀内氏は2018年1月18日付のブログで内海について書いている。『コントロールをつけるには投げ込むことが大事』と考える堀内氏は内海に投げ込みをさせたところ、疲れを見せない体力に驚いたという。『練習しかり実戦しかりピッチャーはとにかくマウンドに立つということ』という信念を持つ堀内氏は、『俺が出来ることはとにかく内海をマウンドに立たせることだと思った』と監督しての役割を全うした。
2004年に就任した堀内監督は3位、5位に終わり、2年で辞任。巨人史上初めて優勝できなかった監督となり、この時代は暗黒期とも呼ばれるが、後の躍進につながる選手を育成したことは確かだ。
「成績だけを見れば芳しくありませんでしたが、堀内監督時代に内海哲也、西村健太朗という投手が経験を積み、原監督の第2次政権で主力となった。当時の巨人はタフィ・ローズ、小久保裕紀など4番を打てる打者ばかり補強してバランスが悪かった。抑えのダン・ミセリが戦力にならず4月中に解雇され、最後は浅草観光をして日本を後にした。フロントの責任も大きかったんです。それでも、堀内監督は辞任会見で『敗軍の将兵を語らず』と他人のせいにはせずに球団を去った。内海の引退で改めて、堀内監督の手腕が再評価されてもいいでしょう」
後に内海は原政権で巨人のエースとして活躍するが、その礎はすでに堀内監督の時代に築かれていたのだろう。