堀内恒夫一覧

【堀内恒夫】に関するニュースを集めたページです。

かつてのドラフト1位選手が電撃トレード(澤村拓一。時事通信フォト)
澤村電撃トレード 「生涯巨人」のドラ1選手は意外と少ない
 巨人のユニフォームのまま、現役生活を終えるドラフト1位選手はどのくらい存在するのか──。9月7日、巨人・澤村拓一投手とロッテ・香月一也内野手の交換トレードが発表された。澤村は今季こそ不振で三軍落ちも経験したとはいえ、2016年のセーブ王であり、昨季も主に中継ぎとして43試合に登板し、防御率2.61を記録。2010年のドラフト1位選手のシーズン途中のトレードには驚きの声が上がった。 1965年のドラフト制開始以降、巨人は江川卓の『空白の1日』で大騒動を巻き起こしてボイコットした1978年を除き、54回のドラフト会議に参加してきた(1966年は1次、2次と2回あり)。1位という呼び名のなかった自由枠獲得で入団した2002年の木佐貫洋、久保裕也、2004年の野間口貴彦、三木均、高校生と大学・社会人ドラフトに分離されていた2005年から2007年までの希望枠で入団した福田聡志、金刃憲人を含めれば、巨人には60人のドラフト1位がいる。このうち、1973年の小林秀一を除き、59人が入団している。 実は、2010年の澤村拓一までの50人のうち、“巨人一筋”の選手は22人しかいない(現役の坂本勇人含む)。意外にも、過半数を超える56%の28人は他チームに移籍した後に、プロ野球生活に幕を閉じている(※2011年ドラ1の松本竜也は2015年に解雇。2012年以降のドラ1は全て現役選手。今回トレードになった澤村までを対象として計算した)。 2000年代以降に監督を務めた堀内恒夫、原辰徳、高橋由伸はいずれもドラフト1位で、現役時代を巨人で全うした。そのため、“巨人のドラ1”には特別なイメージがあるかもしれないが、実際には今回の澤村のようにトレードされることも往々にしてある。 年代順に追うと、1965~1973年のV9時代のドラフト1位で、移籍することなく現役生活を終えた選手は堀内恒夫、高田繁、湯口敏彦(3年目の春に急逝)、中井康之の4人だけ。当時はレギュラーが固定されていた上に、他球団から実績のあるベテランが毎年加入しており、若手の芽が出づらい環境でもあった。1969年の1位である小坂敏彦は3年しか巨人に在籍していない。この時期のドラフト1位が期待されていたような成長を遂げられなかったこともあってか、1974年オフに就任した長嶋茂雄監督は6年で2度のリーグ優勝に留まった。期待通りの活躍をしたドラ1選手たち しかし、1980年オフに藤田元司監督が就任すると、3年で2度のリーグ制覇を果たす。この後の王貞治監督は5年で1度しか優勝できなかったが、1988年オフに再登板した藤田監督は1989、1990年と連覇を果たし、監督生活計7年で4度の優勝に導いた。第1次長嶋政権最終年の1980年からFA(フリーエージェント)選手加入前年の1993年まで、巨人は1度しかBクラスに転落していない。 その背景には、ドラフト1位選手の期待通りの活躍があった。鹿児島実業の定岡正二を指名した1974年から、PL学園の桑田真澄を獲得した1985年までの12年間では、1976年の藤城和明と1979年の林泰宏、1985年の桑田を除いたドラ1の8選手が巨人のままユニフォームを脱いでいる。 この時代のドラ1野手に目を向けると、1975年の篠塚利夫が首位打者2回、1977年の山倉和博がMVP、1980年の原辰徳がMVPと打点王とタイトルを獲得。ドラ1投手では1981年の槙原寛己は新人王、日本シリーズMVP、1982年の斎藤雅樹は最多勝利5回、最優秀防御率3回、1985年の桑田真澄はMVP1回、最優秀防御率2回を獲得している。この3人は“三本柱”と呼ばれ、一時代を築いた。 それに比べ、1986年から1997年までの12年間で、移籍せずに巨人で現役を全うしたのは1990年の元木大介、1995年の原俊介、1997年の高橋由伸の3選手のみ。木田優夫、橋本清、河原純一、入来祐作のように一時期活躍した投手も、最終的には他球団へ移籍している。ドラフト1位だからといって、トレードに出しづらいという風潮は昔から存在しないのだ。FA制度が巨人からの流出も引き起こす 1993年オフにFA制度が導入されると、巨人は他球団から落合博満や川口和久、広沢克己、清原和博などの大物選手を獲得。1989年のドラ1で、東京六大学リーグで三冠王に輝いた大森剛はその実力を発揮する機会に恵まれず、1998年のシーズン途中に近鉄に移籍し、翌年限りで引退した。 1998年の上原浩治から2010年の澤村までのドラフト1位18人のうち、現役の坂本勇人を含めて巨人のユニフォームを着続けた選手は7人だけ。2004年の野間口貴彦、三木均、2005年の辻内崇伸、2007年の藤村大介は20代で現役を退いており、主力のまま現役を終えたのは阿部慎之助しかいない。巨人への入団を熱望し、優勝に何度も貢献した内海哲也や長野久義ですらFAの人的補償で他球団に移っている。昭和の頃より移籍市場が活発になった現代で、阿部のように“巨人一筋”で終われるドラフト1位は稀なのだ。 FA制度は巨人からの流出も引き起こし、松井秀喜や上原浩治、高橋尚成はアメリカに渡った。定岡が近鉄への移籍を断って引退した昭和の頃と違い、今は『巨人がプロ野球界の中心』という価値観も薄れているし、トレードをお払い箱と考える風潮もなくなっている。 1988年ドラ1の吉田修司は巨人在籍5年強で6勝しか挙げられず、1994年シーズン途中に岸川勝也との交換トレードでダイエーに移籍。新天地で水を得た魚のように活躍し、1997年から2003年まで7年連続で45試合以上に登板し、ホークスに欠かせない中継ぎ左腕として3度の優勝に貢献。41歳になる年まで現役を続けた。2008年のドラ1である大田泰示は日本ハムに移籍して開花している。潜在能力の高い“ドラ1”澤村のロッテ移籍は、復活への大チャンスになるか。■文/岡野誠:ライター、松木安太郎研究家、笑点研究家。NEWSポストセブン掲載の〈検証 松木安太郎氏「いいボールだ!」は本当にいいボールか?〉(2019年2月)が第26回『編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞』デジタル賞を受賞。著書『田原俊彦論 芸能界アイドル戦記』(青弓社)の巻末資料では田原の1982年、1988年の全出演番組(計534本)の視聴率やテレビ欄の文言、番組内容などを掲載。
2020.09.08 16:00
NEWSポストセブン
今シーズン中に球団歴代1位の勝利数に到達しそうな巨人・原辰徳監督(時事通信フォト)
『ジャイアンツ愛』から18年、巨人・原監督の名将への軌跡
 昨年、5年ぶりのセ・リーグ優勝を果たした巨人。6月19日に開幕する今季プロ野球で通算14年目を迎える原辰徳監督はこれまで1024勝を挙げており、順当に行けばシーズン中に長嶋茂雄監督の1034勝、川上哲治監督の1066勝を抜き、球団歴代1位の勝利数になりそうだ。なぜ、原監督は“勝てる監督”になったのか。野球担当記者が話す。「時代によって、采配スタイルを変えてきたことが大きい。2002年、長嶋監督の後を受けて43歳で就任した時は『ジャイアンツ愛』をキャッチフレーズに、選手を尊重して情に厚い指揮官でした。松井秀喜が全試合4番に座り、二冠王を奪取。前年まで不振に陥っていた桑田真澄も復活して、最優秀防御率を獲得した。原監督が選手を信じ、我慢して起用したことで、斉藤宜之や鈴木尚広など長嶋政権時代には芽が出なかった若手が成長し、チーム全体がのびのびとしていました。毎年のように大型補強をしていた長嶋監督時代と異なり、この年の補強は新外国人のワズディン、クレスポ、中日からFAで前田幸長を獲ったくらいでした」(以下同) 2002年は序盤こそ星野仙一監督1年目の阪神が快走したが、夏場には巨人の独走状態に。2位・ヤクルトに11.0ゲーム差をつけ、原監督が宙に舞った。日本シリーズでもパ・リーグ王者の西武を圧倒し、4勝0敗で日本一に。選手時代の1990年、0勝4敗と叩きのめされた相手に雪辱を果たした。新たな黄金時代の到来かと思われたが、オフには松井がヤンキースに移籍。その一方で、松井と本塁打王を争っていたロベルト・ペタジーニをヤクルトから獲得した。「“脱長嶋野球”で日本一になったのに、他球団の4番を奪ってくるという補強に逆戻りしてしまった。原監督の意思というより、フロントの意向だったのでしょう。ペタジーニの本職である一塁には清原和博がいるため、外野で起用しましたが、開幕戦で本塁への送球を暴投するなど守備の乱れも目立った。この頃の原監督は良くも悪くも頑固で、前半戦は清原が欠場していてもペタジーニを外野で使っていましたし、抑えの河原純一が何度失敗しても9回を任せ続け、チームの調子は上がりませんでした」 この年は3位とAクラスを確保したが、原監督は球団代表との確執も噂され、辞任。後を受け継いだ堀内恒夫監督が3位、5位に終わると、2006年から第2次原政権が始まった。スタートダッシュに成功し、最大貯金14と首位を快走したが、交流戦で失速。6月に8連敗、10連敗、7月に9連敗を喫し、最下位に落ちた時期もあった。なんとか4位に踏みとどまるも、借金14で球団史上初の2年連続Bクラスに終わった。「この年がターニングポイントでしたね。故障者が続出したことで、『巧い選手ではなく、強い選手が欲しい』と言うようになった。時折非凡さを感じさせるプレーをする選手よりも、年間を通して働ける選手を望みました。“強い選手”は計画性や己を律する能力がある、と原監督は考えています。2006年の惨敗をきっかけに、完全な実力至上主義を打ち出し、情に厚いイメージが消えた。このオフから『ジャイアンツ愛』という言葉が、ほとんど聞かれなくなりました」 2007年の春季キャンプで、前年の後半戦に1番として起用した鈴木尚広、チームリーダーとしても期待の二岡智宏がケガで離脱すると、報道陣に〈鈴木? 痛いのかゆいの言って、土俵にも上がっていない。二岡? そんなのいたっけ?〉と突き放した。シーズンに入ると、二岡は139試合に出場し、打率2割9分5厘、20本塁打と主軸として活躍した。しかし、7月の広島戦では、チャンスの場面で代打に小関竜也を送るなど厳しい一面を見せた。「原監督はコーチの頃から二岡に大きな期待を掛けていましたし、レギュラー選手のプライドを重視していた第1次政権では考えられない采配でした。結果的に小関は凡退し、この用兵は当たらなかった。ただ、誰も特別扱いしないという方針を示したことで、チームに緊張感を生んだ。 この年、原監督は1番に高橋由伸を抜擢し、先発に拘っていた上原浩治を抑えに回した。オフにはFAで小笠原道大、トレードで谷佳知を獲得した。彼らがシーズンを通して働いて“強い選手”の模範となり、巨人は5年ぶりの優勝に輝きました。監督の意識改革が、そのままチーム改革につながった。小笠原や谷の補強は数字の面だけでなく、練習への姿勢などでも他の選手への影響を与えていた。指揮官にはそんな狙いもありました」 原監督は2007年から3連覇、2009年にはWBCで指揮を執り、世界一に導いた。落合博満監督の中日に2年間覇権を渡してしまうが、2012年からまた3連覇。2位に終わった2015年限りで退任したが、2019年に復帰するとチームを5年ぶりの優勝に導いた。「プロ野球の歴史を振り返ると、名将と呼ばれた監督たちも在任期間が長くなると、徐々に勝てなくなってくる。原監督のように“第3次政権”となると、過去の成功体験に囚われてしまいがちです。選手の考え方は世代によって変わっていきますし、時代に合わなくなっていくのです。 しかし、原監督は常に自身をブラッシュアップさせ、考え方も戦略も柔軟に変化させている。肉体は衰えますが、思考は何歳になっても変えられると示しています。昨年、丸佳浩や炭谷銀仁朗というFA組は活躍したが、期待された中島宏之や岩隈久志という移籍組、ビヤヌエバやクックといった新外国人は数字を残せなかった。エースの菅野智之も不調に陥る中、原監督が選手を適材適所で起用することで、なんとか優勝できた。第2次政権で山口鉄也や松本哲也などが育ったように、昨年も増田大輝や若林晃弘が伸びました」 今年の巨人はオフに目立った補強もできず、戦力的に頭抜けているわけではない。坂本勇人や大城卓三が開幕から全開というわけにもいかない。先発も、昨年の勝ち頭である山口俊がメジャーに行き、菅野以外で計算できる投手が少ない。苦しい状況の中、原辰徳はどう選手をやり繰りし、巨人監督最多勝利を実現するか。
2020.06.17 16:00
NEWSポストセブン
江夏豊の球宴9連続奪三振 ベンチで展開された人間模様
江夏豊の球宴9連続奪三振 ベンチで展開された人間模様
 今年のプロ野球オールスターゲームは中止になったが、球宴が今も昔も心を揺さぶるのは、プロの凄みが凝縮されるようなシーンがしばしば生まれてきたからだ。その中でも「史上最高」と語り継がれるのが、1971年、江夏豊(阪神)による9者連続奪三振。芥川賞作家で熱狂的阪神ファンとして知られる高橋三千綱氏は、あの試合の衝撃を「はっきりと覚えている」という。「オールスターのシーズンが近づくと、どんな選手が選ばれるかワクワクして。そのなかでも、江夏豊(阪神)の9者連続奪三振は、誰が相手だったかまではっきり覚えています。江夏は“打てるものなら打ってみろ”とばかりにストレートを投げ込み、パ・リーグのバッターもミートに徹すれば不名誉な記録は避けられるのに、フルスイングで向かっていったのは立派でした。 9人目となった加藤(秀司・阪急)がファウルフライを打ち上げたとき、江夏は田淵(幸一・阪神)に『追うな!』と声をかけてたけど、こっちもテレビを見ながら“ファウルになれ”と叫んでいました」 江夏の記録は、文字通りの“オールスター”の顔ぶれの中で生まれたからこそ、価値がある。3番・王貞治、4番・長嶋茂雄のONの脇を田淵、ロバーツ(ヤクルト)らスラッガーが固めた。対するパも、江藤慎一(ロッテ)、土井正博(近鉄)、張本勲(東映)、野村克也(南海)、長池徳二(阪急)の超重量級打線だった。投手陣も圧巻の顔触れだ。セが江夏、堀内恒夫(巨人)、平松政次(大洋)、パは米田哲也(阪急)、村田兆治(ロッテ)、山田久志(阪急)……。 交流戦がなかった当時、日本シリーズ以外に、セ・パの代表選手が真剣勝負するのは、この機会しかない。WBCのように日本代表として組む機会もなかったため、ライバル球団の選手が同じベンチで談笑する姿すら貴重だった。いまやお祭りムードの印象が強いオールスターだが、当時は違う。市立和歌山商から阪神に入団して6年目の藤田平は、4回目の出場ながらピリピリした空気を感じていた。「セの監督は、あの年巨人をV7に導いた川上哲治さんですし、緊張感がありました。直接話なんてできませんよ。子供の頃からの憧れだった長嶋さんと三遊間を組んで、ショートゴロを捕れば一塁の王さんに送球する。それは感激でした」◆「幸司、前に来て勉強しろ」 ファン投票でパの投手トップになったのは、甲子園のアイドルからプロ入りして2年目の太田幸司(近鉄)。ルーキーイヤーも人気だけで選出されたが、この年も調子は上がらず0勝1敗の成績で、選出が決まった日にファーム落ちした。「ファン投票の中間発表で1位にいると、頼むから投票しないでくれ、と思ったものです。本番のベンチではボクらのようなペーペーは、隅っこのほうで小さくなって見ていましたが、張本さんから“幸司、前に来い。選ばれたのは恥ずかしいことじゃない。ファンの期待に応えるためにも、一番前で先輩たちのプレーを勉強しろ”と声をかけてもらって救われました」 その目の前で、江夏は伝説の快投を見せた。「パの強者たちが“俺が打ってくるわ”と勇ましく出て行くのに打てないんですから」(同前) 江夏はこの年、ここまで6勝9敗と振るわず、「こんな成績なのに選ばれるとは思わなかった。ファンの期待に応えるためには、大リーグにもない記録を作ってやる」と心に決めていたという。ベンチでその様子を見ていた木俣達彦(中日)が振り返る。「セのコーチには村山実さん(当時阪神の選手兼監督)もいたんですが、“あんな江夏は見たことないで。公式戦でもあれぐらい真剣に投げてくれたらええのに”とボヤいて、みんなを笑わせてました。けれど笑いはそこまで。当時は真剣勝負でしたから」 江夏の熱投は、リリーフした渡辺秀武、高橋一三(ともに巨人)ら4投手にも乗り移り、継投でのノーヒット・ノーランを達成した。 江夏は打者としても鮮烈な印象を残した。2回に回って来た2死一、二塁の打席で3球目を右翼席中段に叩きこんだ。打たれた米田は、前年までに286勝を挙げていた球界の大エース。試合前の始球式は、米田の長男が務めた。米田は半世紀が過ぎた今でも悔しそうに語る。「ああ、あの試合か。ボウズの前で江夏に3ランを打たれたことしか思い出さんわ。当時のパ・リーグは監督も選手も、みんな人気があって給料もよかったセ・リーグに負けたくないという気持ちで、ランナーに出ても相手とは話もせんかったもんや。なにせ、(ドル箱の)巨人とオープン戦を組んでもらうのに四苦八苦してた時代やからねえ」※週刊ポスト2020年6月5日号
2020.05.28 11:00
週刊ポスト
1989年には11試合連続完投勝利のプロ野球新記録を達成した斎藤雅樹(時事通信フォト)
巨人に斎藤、槙原、桑田の“三本柱”が揃っていた時代
 新型コロナウイルスの感染拡大で、延期になっていたプロ野球の開幕が6月19日に決まった。セ・リーグは連覇を目指す巨人、昨年2位に躍進したDeNA、オープン戦でセ・リーグ1位の阪神、昨年の雪辱を期す広島、高津臣吾新監督を迎えたヤクルト、7年連続Bクラスからの脱出を図る中日が凌ぎを削る。野球担当記者が話す。「120試合制で時間制限も検討され、過密日程も予想される今年は、先発の役割が例年以上に重要になるでしょう。昨年は原辰徳監督が上手くやり繰りし、巨人が5年ぶりの優勝をしましたが、戦力的に圧倒しているわけではない。どの球団にもチャンスがあると思います」(以下同) 巨人は今年のオープン戦16試合でわずか2勝、最下位に終わっている。昨年、2ケタ勝利は15勝の山口俊、11勝の菅野智之の2人だった。勝ち頭の山口が抜けた今季、菅野を刺激するような若手が台頭してくることが、連覇の鍵となるだろう。 V9時代には堀内恒夫と高橋一三、1980年代には江川卓と西本聖という2枚看板がチームを引っ張っていた。1990年代になると斎藤雅樹、槙原寛己、桑田真澄という“三本柱”が君臨。そのため、チームは安定した成績を残してきた。 1987年限りで江川が引退し、翌年オフに西本が中日にトレードされ、元号が平成に変わった1989年、斎藤が前年の6勝から20勝と飛躍し、桑田が17勝、槙原が12勝を挙げる。巨人は日本一に輝き、3人は三本柱と呼ばれるようになる。同年からの10年間で、3人は計351勝。このあいだ、巨人は優勝を4回した。「実は、3人が揃って1年間、活躍したシーズンはほとんどありません。3人とも2ケタ勝利を挙げたのは1989年、1992年、1994年の3度だけです。このうち、2度は優勝しています。 ただし、1989年はオールスター直後に槙原がケガで離脱。1992年は桑田がチームの10連勝や7連勝を止めてしまい、連勝ストッパーと呼ばれるほど絶不調に。槙原も優勝争いの9月、10月で1勝もできず、チームは2位に終わりました。1994年は3人ともシーズンを通して働き、中日との最終戦、同率首位決戦で槙原・斎藤・桑田のリレーで勝った。この年、“三本柱”の印象が強くなったのだと思います」 優勝した1990年は槙原がケガで戦列を離れており、4位に沈んだ1991年は前年まで2年連続20勝の斎藤が9勝に終わった。1993年はリーグ最下位のチーム打率2割3分8厘という打線の不振もあり、斎藤と桑田が1ケタ勝利に。1995年5月には桑田がヒジを痛め、翌シーズンまで棒に振った。「広島との11.5ゲーム差をひっくり返した1996年は、桑田だけでなく槙原も夏場に離脱しています。この年は斎藤とガルベスが16勝で最多勝を分け合い、“メークドラマ”を達成した。1997年の開幕戦で、斎藤がヤクルトの小早川毅彦に3連発を打たれ、このシーズンから全盛期ほどの活躍はできなくなります。翌年は斎藤10勝、桑田16勝でしたが、槙原はシーズン途中から抑えに回った。3人が先発ローテーションに入っていたのは、この年の中盤までです」 3人同時に活躍したシーズンが少なかったとはいえ、1989年から1998年までの11年間で見ると、2ケタ勝利は斎藤が8回、桑田が7回、槙原が6回。3人同時の2ケタ勝利は前述のように3回、2人同時は5回、1人だけは2回。少なくとも三本柱のうち、1人はエースの役割を果たしていたのだ。この10年で、巨人のBクラスは2回のみ。甲乙つけがたい“エース級”が3人いたことで、大崩れしなかった。「3人のうち1人ダメでも、2人残っているという安心感が、首脳陣にも本人たちにもファンにもあったのではないでしょうか。その象徴が1994年の10・8決戦。先発の槙原は打たれたが、斎藤と桑田が好投して勝った。日本シリーズでは、槙原が2勝してMVPになって雪辱を晴らした。1人のエースが10年間、ケガなく絶好調を続けられることは、まずない。3人の誰がエースかという議論もありますが、この数字を見ると、お互いがお互いを助け合っており、まさに“三本柱”という表現がピッタリ当てはまるのではないでしょうか」 これまでの実績を踏まえると、今年の巨人で2ケタ勝利を計算できるのは菅野しかいない。もし菅野が崩れると、ガタガタと大型連敗の可能性すらある。1990年代のように三本柱を形成するのは難しくとも、2年目の高橋優貴や戸郷翔征のような若手の台頭に期待したい。
2020.05.27 16:00
NEWSポストセブン
ファンは忘れない 阪神低迷期を支えたマット・キーオ氏の功績
ファンは忘れない 阪神低迷期を支えたマット・キーオ氏の功績
 5月1日(日本時間2日)、アメリカ大リーグのオークランド・アスレチックスが球団公式ホームページで、元阪神タイガースのマット・キーオ氏が死去したと発表した。64歳だった。阪神にとって、キーオ氏とはどんな投手だったのか。ライターの岡野誠氏が綴る。(文中敬称略) * * *〈いまや、阪神の最下位はニュースではないかもしれない〉(平成2年12月31日・日刊スポーツ) 昭和60年の日本一は幻だったのか――。21年ぶりの歓喜から2年後、阪神はセ・リーグ最下位に転落。昭和63年は球団史上初の2年連続最下位に終わり、その後も5位、6位と4年連続Bクラスに沈んでしまう。ファンが絶望の淵に立たされていた時代、獅子奮迅の活躍を見せていたのがマット・キーオである。 大リーグ通算58勝の実績を引っ提げ、昭和62年に入団。父親のマーティ・キーオは昭和43年に南海で一塁手としてプレーしており、日本球界初の親子2代の助っ人外国人となった。日本で過ごしていたキーオは、来日記者会見で「知っている日本語は?」と問われると、「ドン・ガバチョ!」と返答。テレビ人形劇『ひょっこりひょうたん島』(NHK)の大ファンだったのだ。 父と同じ背番号4を付けたキーオは外国人投手初の“入団1年目で開幕投手”に抜擢される。そのヤクルト戦では初回に若松勉にソロホーマーを打たれるなど、7回途中5失点で敗戦投手となったが、2度目の先発では大洋に10安打を浴びるも、2失点完投で来日初勝利を飾った。 球団史上最低のチーム勝率3割3分1厘に終わった同年、キーオは頼みの綱だった。5月3日に8連敗を止めたのを皮切りに、6度も連敗ストッパーに。7月、阪神は3勝12敗と散々な成績だったが、その勝ち星は全てキーオだった。チーム唯一の2ケタである11勝を挙げ、各球団の主軸打者との対戦成績を見ても、首位打者の篠塚利夫(巨人)は13打数2安打、正田耕三(広島)は11打数2安打、本塁打王のリチャード・ランス(広島)は9打数1安打、打点王のカルロス・ポンセ(大洋)は21打数5安打と、タイトルホルダーを苦しめた。 監督が吉田義男から村山実に代わった翌年も、キーオは孤軍奮闘する。4月14日の巨人戦(甲子園)で新体制の初勝利を完投で飾り、村山監督の涙を誘った。この年もチームで唯一の2ケタ勝利(12勝12敗)を記録し、防御率2.76と抜群の安定感を誇った。規定投球回数を投げた18人のうち、敬遠なしはキーオだけ。各チームの主軸に立ち向かい、落合博満(中日)は11打数2安打、中畑清(巨人)は19打数1安打と見事に抑えている。 来日3年目の平成元年には、8月4日の大洋戦で84球の無四球完投勝利を挙げるなど15勝(9敗)8完投、4無四球試合という数字を残して斎藤雅樹(巨人)、西本聖(中日)、桑田真澄(巨人)、阿波野秀幸(近鉄)、渡辺久信(西武)、星野伸之(オリックス)、西崎幸広(日本ハム)とともに沢村賞候補にリストアップされた。結果的に、20勝(6敗)21完投の斎藤が受賞したが、Bクラスに沈んだチームで数少ない明るい話題となった。◆シーズン12安打のうち半分以上が長打 打撃の良さも、キーオの特徴だった。2年目の昭和63年には、4月26日の大洋戦(甲子園)で2回に遠藤一彦から先制3ラン、5月22日の巨人戦(東京ドーム)でも2回に加藤初から先制タイムリーを放ち、ともに勝利打点を記録した。 3年目はシーズン12安打のうち、二塁打4、三塁打2、本塁打1と半分以上が長打であり、打点10を叩き出している。年間2本の三塁打は、バッティングも冴えた金田正一(国鉄→巨人)、米田哲也(阪急→阪神→近鉄)、堀内恒夫(巨人)、平松政次(大洋)、松岡弘(ヤクルト)、江川卓、西本聖、斎藤雅樹、桑田真澄(以上、巨人)も達成していない。 キーオは4年目にも6月6日の中日戦で三塁打を放ち、日本球界4年で3本を数えた。過去20年、阪神の投手で三塁打を打ったのは平成14年5月31日のトレイ・ムーア、平成21年10月4日、平成27年5月5日の岩田稔、平成28年4月12日の藤浪晋太郎の4例しかない。 3年目オフに2年契約を結んだキーオだったが、4年目の平成2年は序盤から波に乗れず、7勝9敗、防御率5.00と成績が落ち込み、球団は解雇を選択した。〈キーオとは今年1月に2年契約を結んでおり、残留の場合には来季150万ドル(約2億1000万円)の年俸を払う必要があるが、バイアウト(契約買い上げ)なら50万ドル(約7000万円)を払って解雇することができる〉(平成2年9月25日・日刊スポーツ) キーオは9月22日のヤクルト戦で勝利投手になると「タイガースが好きだし、来年も投げたい」と話し、大阪空港から日本を離れる際にも“日本球団への売り込みメッセージ”を報道陣に残した。しかし、願いは叶わなかった。1990年代前半、外国人選手の1軍登録は2人まで。現在のように4人まで認められていれば、状況は変わっていただろう。 阪神が18年ぶりに優勝した平成15年、“キーオ以来”の文字がスポーツ紙に踊った。ムーアが外国人投手で2年連続2ケタ勝利、井川慶が15勝(最終的に20勝)を挙げたからだ。阪神時代に美酒は味わえなかったが、のちにチームが優勝したことで、暗黒時代に踏ん張っていたエースにスポットが当たったのだ。 4年間で挙げた45勝のうち、24勝が連敗ストップの試合──。阪神ファンは、低迷期を支えたマット・キーオを決して忘れないだろう。■文/岡野誠:ライター。著書『田原俊彦論 芸能界アイドル戦記1979-2018』(青弓社)の巻末資料では田原の1982年、1988年の全出演番組(計534本)を視聴率やテレビ欄の文言などのほか、『ザ・ベストテン』の緻密なデータも掲載。NEWSポストセブン掲載の〈検証 松木安太郎氏「いいボールだ!」は本当にいいボールか?〉(2019年2月)が第26回『編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞』デジタル賞を受賞。
2020.05.05 16:00
NEWSポストセブン
堀内恒夫が振り返る新人時代「球種は2つあれば十分だった」
堀内恒夫が振り返る新人時代「球種は2つあれば十分だった」
 1966年に巨人入りした堀内恒夫は、開幕3戦目に高卒ルーキーとして初先発。これを初勝利で飾ると、7月までに13連勝し、1年目は16勝2敗で終えた。最優秀防御率と最高勝率に輝き、新人王と沢村賞にも選ばれた。当時の記憶を堀内氏自身が振り返った。 * * * 高卒ルーキーが1年目から活躍するには、実力もさることながら良い指導者に出会うとか、チャンスが巡ってくるなどのツキも必要だと思う。その比重の方が大きいかもしれない。僕もキャンプは二軍スタートだったが、ラッキーだったのはジャイアンツの投手陣が世代交代の狭間にあり、ルーキーの僕にも食い込む余地があったこと。 当時の二軍には高橋一三さんや渡辺秀武さん、菅原勝矢さんたちがいたが、ブルペンで並んで投げると自分の実力がわかる。球は僕が一番速かった。どこに行くかわからなかったけどね(苦笑)。一軍には僕が一番近いと思っていました。 キャンプ終盤には一軍に上がり、オープン戦でも好投、開幕も一軍で迎えることができた。すると3戦目で先発のチャンスが巡ってきた。大雨で中止のはずだった試合が決行されたんです。どうせ途中で中止だろうと新人の僕にお鉢が回ってきたわけです。 6回に2点取られて降板したが、7回表に僕の代打に出た柳田利夫さんが逆転タイムリーを放ってくれて、初登板初勝利を手にすることができた。それでも川上哲治監督に「コントロールが悪い」と二軍に落とされましたが、5月に一軍へ再昇格し、それから連勝街道。腐ったり、あきらめちゃいけないと思った。 僕は真っすぐとカーブしかなかったが、球種なんてふたつもあれば十分だった。ただ度胸もあった。オープン戦で投げた時に「プロでやれそうだ」と思ったし、一軍相手に「通用する」と思って投げているうちにあれよあれよと13連勝になった。どうせベンチは期待していないわけだし、開き直るしかなかった(苦笑)。 今年は佐々木朗希君と奥川恭伸君という有望な高卒ルーキーがプロ入りしましたね。佐々木君のような抜群に速い球が投げられればカネが稼げる選手になれる。一軍でも十分に通用すると思うが、問題は体力。僕はシーズンを通して体力的に問題はなかったが、それでも後半はバテバテだった。 故障があった奥川君は二軍スタートだが、これも正解。高校生の場合、2~3年は基礎体力造りをやる方が長持ちする。佐々木君はいまのまま突っ走って、壁にぶつかれば路線変更、あるいは何かをプラスすればいい。奥川君はじっくり鍛えて上を目指すべきです。 光るものが1つあればプロになれる。2個なら二軍、3個なら一軍、4個なら一軍で勝て、5個ならエースですよ。ルーキー時代の僕には4つあったんだと思う。コントロールは悪かったけれど、それさえも相手に恐怖を与える武器となった。佐々木君も速い球という武器があるのだから、開き直ってやればいいと思う。 あとONが同じチームだというのも大きかった。藤田元司コーチという指導者にも恵まれたし、川上哲治監督が根気よく使ってくれた。金田正一さんにも可愛がってもらった。いろんなことが積み重なって残せた結果だと思っています。※週刊ポスト2020年4月10日号
2020.04.05 07:00
週刊ポスト
堀内恒夫は1966年にプロ入りした(時事通信フォト)
野茂、堀内、松井、大谷ら 新人時代から大活躍した名選手達
 プロ野球界にはルーキーイヤーから大活躍する選手たちがいる。ここでは野茂英雄、堀内恒夫、松井秀喜ら、7人の選手たちのデビュー当時を振り返ってみよう。◆堀内恒夫(1966年プロ入り) 1年目成績 登板試合:33 勝利:16 敗北:2 防御率:1.39 奪三振:117 開幕3戦目に高卒ルーキーとして初先発。これを初勝利で飾ると7月までに13連勝し、1年目は16勝2敗で終えた。最優秀防御率と最高勝率に輝き、新人王と沢村賞にも選ばれた。44イニング連続無失点は今も塗り替えられていない新人記録となっている。2年目以降もコンスタントに勝ち星を挙げ、巨人V9のエースとして活躍。13年連続2ケタ勝利をマークした。 ふてぶてしいまでのマウンド度胸からついた異名は“甲斐の小天狗”“悪太郎”。入団に際しての取材では、時間や場所を変えて1社ずつ同じような質問をされるのが面倒臭くなり、「誰かが代表して聞いてくれませんか」と言い放った。門限破りの常連で、鬼軍曹と呼ばれた武宮敏明寮長から叱られた時に「憲法で決まっているわけではない」と反論した逸話もある。◆松井秀喜(1993年プロ入り) 1年目成績 出場試合:57 安打:41 打率.223 本塁打:11 打点:27 12年ぶりに長嶋茂雄監督が巨人へ復帰したシーズンに華を添えたのが、甲子園での5打席連続敬遠が社会現象になったゴールデンルーキー・松井秀喜だった。4球団競合による抽選で引き当てた松井の背番号55は、王貞治の最多本塁打記録(当時)にちなんだ数字。長嶋監督の松井へのホームランバッターとしての期待の大きさがうかがえる。 キャンプでは場外弾を連発したが、オープン戦では不調(打率.094、20三振)だったため開幕は二軍で迎えた。5月に7番レフトで一軍デビューを果たし、2試合目に高津臣吾から初本塁打を放っている。 6月には二軍に降格したが、フレッシュオールスターでMVPを獲得し、8月に一軍へ再昇格するとヒットを連発し、3番に定着。ルーキーイヤーは11本塁打を放ち、セ・リーグ高卒ルーキーの本塁打記録を更新し、翌年からレギュラーに定着した。◆大谷翔平(2013年プロ入り) 1年目成績【投手】登板試合:13 勝利:3 敗北:0 防御率:4.23 奪三振:46【打者】出場試合:77 安打:45 打率:.238 本塁打:3 打点:20 花巻東高時代、地方大会でアマ野球史上最速の160キロを記録し、日米から注目された。大谷はメジャー挑戦を表明したが、日本ハムが投手と野手の二刀流育成プランを提示し、ドラフト1位で獲得。46年ぶりに高卒新人でプロ初勝利と初本塁打を記録した。◆野茂英雄(1990年プロ入り) 1年目成績 登板試合:29 勝利:18 敗北:8 防御率:2.91 奪三振:287 史上初の8球団競合の末、近鉄に入団。プロ初勝利を17奪三振の日本タイ記録(当時)で飾ると、5試合連続2ケタ奪三振を記録。ルーキーイヤーは最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率の投手4冠のほか、新人王、ベストナイン、MVP、沢村賞を受賞。◆田中将大(2007年プロ入り) 1年目成績 登板試合:28 勝利:11 敗北:7 防御率3.82 奪三振:196 夏の甲子園決勝で早実高の斎藤佑樹(現日本ハム)と投げ合い、ドラフトでは4球団が競合、楽天に入団。高卒1年目では歴代4位の196奪三振でシーズンを終え、186イニング1/3を投げて11勝。1999年の松坂大輔以来、8年ぶりに高卒1年目の新人王が誕生した。◆上原浩治(1999年プロ入り) 1年目成績 登板試合:25 勝利:20 敗北:4 防御率:2.09 奪三振:179 ドラフトでは松坂と話題を二分。巨人が逆指名を勝ち取った。初登板は黒星だったが、歴代4位タイの15連勝を記録し、33年ぶりに堀内が持つ新人連勝記録(13連勝)を更新。木田勇以来となるルーキー20勝をマークし、新人王と沢村賞をダブル受賞した。◆立浪和義(1988年プロ入り) 1年目成績 出場試合:110 安打:75 打率.223 本塁打:4 打点:18 PL学園の主将として甲子園で春夏連覇(1987年)を達成し、ドラフトでは南海と競合した中日が獲得。開幕で一軍メンバーに名を連ねると、2番ショートで先発出場。新人王に選ばれ、高卒ルーキーとしては史上初となるゴールデングラブ賞を受賞した。※週刊ポスト2020年4月10日号
2020.04.01 07:00
週刊ポスト
金田正一からキツいプロの洗礼(共同通信社)
長嶋茂雄、清原和博、松坂大輔 いかにすごい新人だったか
 プロ野球界では、1年目から華々しくグラウンドで活躍したヒーローたちがいる。なかでもデビュー時の衝撃が大きかったのが、長嶋茂雄、清原和博、松坂大輔の3人だろう。彼らの何がすごかったのか、データとともに振り返る。◆長嶋茂雄(1958年プロ入り) 1年目成績 出場試合:130 安打:153 打率:.305 本塁打:29 打点:92 ゴールデンルーキー・長嶋茂雄と国鉄スワローズの大エース・金田正一が対戦した1958年の巨人対国鉄戦はプロ野球史上、最も注目された開幕戦といわれる。通算8本塁打の東京六大学記録を引っさげて鳴り物入りで巨人入りし、オープン戦でも7本塁打と大暴れの長嶋に対し、すでに通算182勝を挙げていた金田。その対決に、後楽園球場は異様な熱気に包まれた。結果は4打席4三振。長嶋は1球もバットに当てることができなかった。 しかし、翌日から長嶋のバットは火を噴いた。新人ながら本塁打王(29本)と打点王(92打点)を獲得。新人で本塁打王はいるが、打点王は長嶋だけ。1年目から「チャンスに強い打者」を印象づけた。 打率.305はリーグ2位。盗塁は37を記録した。一塁ベースを踏み忘れた幻の1本を加えれば、3割、30本塁打、30盗塁で巨人唯一のトリプルスリー達成となっていた。 開幕戦で3番に起用された長嶋は、8月から打撃の神様・川上哲治に代わって4番を任された。日本シリーズでも4番を打ったが、西鉄の稲尾和久の前に沈黙。巨人は3連勝のあと4連敗したが、長嶋は第7戦で稲尾からランニングホーマーを放って意地を見せた。 ルーキーイヤーに6試合連続で敬遠され、そのたびに調子を崩したと言われている。現役中、敬遠に抗議するためバットを持たずに打席に入ったことがあるが、新人の時から敬遠四球が大嫌いだった。◆清原和博(1986年プロ入り) 1年目成績 出場試合:126 安打:123 打率:.304 本塁打:31 打点:78 甲子園通算13本塁打など数々の高校野球記録を樹立。子供の頃からファンだった巨人への入団を希望していたが、巨人はプロ入りを拒否していた桑田真澄を単独指名。清原は1985年のドラフト会議で6球団が1位で競合、西武が引き当てた。 開幕2戦目に公式戦デビューし、2打席目に本塁打を放った。6月には写真週刊誌に登場。門限破りで罰金を払うなど新人離れした話題を提供した。 球宴では巨人選手の前でホームランを打ってのけた。シーズン後半戦はさらに本塁打ペースを上げ、長嶋茂雄の1年目(29本)を抜いて31本塁打を放った。 シーズン終盤には4番に定着。高卒ルーキー新記録となる本塁打数に加え、打率、打点など新人記録をほとんど塗り替え、新人王を獲得。それまで高卒野手の新人王は中西太、豊田泰光、榎本喜八、張本勲の4例しかなかった。◆松坂大輔(1999年プロ入り) 1年目成績 登板試合:25 勝利:16 敗北:5 防御率:2.60 奪三振:151“平成の怪物”と呼ばれた横浜高のエースは3球団競合の末、西武の東尾修監督が当たりくじを引き当てた。初登板は東京ドームでの日本ハム戦。1回に片岡篤史へいきなり155キロの快速球を投げ、8回2失点で初登板初勝利を挙げた。「東尾監督の配慮でデビュー戦は本拠地ではなくマウンドに傾斜がある東京ドームだった。余裕をもって投げていたので終盤でも150キロ台を投げた。マウンド上で自己修正ができ、そのため投げるたびに進化していった」(当時の西武投手コーチだった杉本正氏) イチローとの初対決(5月16日)では3打席連続三振に打ち取り、試合後のインタビューで「自信から確信に変わりました」の名セリフを残した。この年、16勝を挙げて新人王を獲得した。高卒ルーキーの最多勝は堀内恒夫以来、33年ぶりだった。※週刊ポスト2020年4月10日号
2020.03.31 07:00
週刊ポスト
オープン戦最下位決定に原辰徳監督(中央)は何を思うか(EPA=時事)
巨人、過去のオープン戦最下位時はいずれも開幕ダッシュ失敗
 3月14日、巨人は楽天と3対3で引き分け、1965年以降で5度目のオープン戦最下位が決まった。昨年、5年ぶりのリーグ優勝を果たした巨人だが、15勝を挙げた山口俊がメジャーリーグに移籍し、代打や困った時のスタメン起用で期待に応えていた阿部慎之助が引退。オフのFA市場では美馬学、鈴木大地の獲得に名乗りを上げるも、他球団に奪われ、補強は新外国人とドラフトに留まった。野球担当記者が話す。「昨年、丸佳浩と炭谷銀仁朗がFA加入したため、補強による戦力アップで優勝したと思われがちですが、セカンドのレギュラーを期待された吉川尚輝が開幕早々に離脱し、新外国人のビヤヌエバも活躍できなかった。ゲレーロが打ち始めたのも夏場でしたし、岡本和真も不振で4番を外された時期があった。それでも原監督が上手くやり繰りして、なんとか優勝に漕ぎつけた。今年は思うような補強ができませんでしたし、若手が伸び悩むと、かなり苦戦すると思います。オープン戦がその前触れと見ることもできます」(以下同) 過去4度のオープン戦最下位は1972年、1992年、2008年、2017年。川上哲治監督の下でV7を達成した1972年、第2次原政権3年目の2008年は優勝を果たしている。藤田元司監督最終年の1992年は2位、高橋由伸監督の2017年は4位だった。過去2回優勝しており、「オープン戦の順位は公式戦に関係ない」という球界の定説は、巨人に当てはまりそうだ。ただし、オープン戦最下位の年は、開幕後にある傾向が出ている。「いずれも開幕スタートダッシュには失敗しています。4月を終えた時点での順位は1972年が3位、1992年は5位、2008年は4位、2017年は3位。1972年は大型連敗もなく5月に首位に立ちましたが、1992年は4月に6連敗、5月に4連敗を2度、5連敗を1度喫して、1か月以上も最下位の時期がありました。2008年は首位・阪神に最大13ゲーム差を付けられましたし、2017年は球団史上最悪の13連敗をしてしまった。 今年の巨人は山口俊の穴を埋めるため、戸郷翔征や畠世周などの若手投手の成長が望まれています。しかし、オープン戦で不調だったり、ケガで出られなかったりと結果を残せていない。苦戦を強いられることになるかもしれません」 オープン戦最下位から優勝した1972年は長嶋茂雄の力に衰えが見え始めたが、王貞治が48本塁打、120打点で2冠王を獲得。エースの堀内恒夫が26勝とキャリアハイの数字を挙げて、最多勝に輝いた。2008年はヤクルトから移籍してきたラミレス、グライシンガー、横浜から移籍のクルーンといった外国人トリオが徐々に調子を上げ始め、北京五輪で主力の抜けた首位・阪神が夏場に失速したこともあって、『メーク・レジェンド』を遂げた。「1992年は、5月に西武から大久保博元が移籍。大久保がホームランを打つと負けないという“デーブ神話”もでき、6月7日から7月8日まで21勝2敗という驚異的な追い上げを見せ、首位にも立ちました。一方、2017年は13連敗したにもかかわらず、シーズン中の補強はなく、Bクラスに終わってしまった。百戦錬磨の原監督ですから、オープン戦と同じような成績にはならないでしょうけど、若手が成長しなければ緊急補強に走るはず。今年の巨人の戦力はずば抜けているわけではないうえ、セ・リーグ6球団の力は均衡しているので、Bクラスの可能性もある」 新型コロナウイルスの感染拡大によって、開幕が延期したプロ野球。これからの数週間で、原監督はどうチームを立て直すか。
2020.03.15 07:00
NEWSポストセブン
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巨人の人脈勢力図 サカチョー組解体し「菅野派」が最大派閥
 2月に入るとプロ野球12球団は一斉にキャンプインする。番記者たちが紙面で書けない裏話を打ち明ける。セ担当記者:内海哲也(西武)の古巣・巨人では、自主トレの人脈勢力図が塗り変わりました。「内海組」や、坂本勇人と長野久義らの「サカチョー組」は解体し、「菅野派」が最大派閥になった。東海大の後輩・中川皓太や、鍬原拓也、直江大輔、宮國涼丞らが同行していました。スポーツ紙デスク:巨人は、FA戦線で惨敗してブルージェイズに移籍した山口俊の穴を埋められず、苦しいところだな。セ担当:既存戦力にハッパをかける意図なのか、何人かの選手の背番号を“出世”させました。増田大輝が「63」から「0」に、大城卓三も「46」から「24」に、戸郷翔征は「68」から「13」に変更されました。ベテラン編集委員:原監督は背番号をコロコロ変える印象だけど、その効果は疑問だな。OBの堀内恒夫氏もブログに「今年もなんだか変わる選手が多いようで」「記憶力が勝負のピッチャー出身と言えども、こうも変わるとついていけません」と書いて皮肉っていた(笑い)。セ担当記者:山口の代わりに先発の柱として期待がかかる新外国人投手・サンチェスや、ゲレーロに代わって獲得したメジャー通算88本塁打のパーラ(ナショナルズ)の活躍も未知数ですからね。※週刊ポスト2020年2月7日号
2020.01.31 07:00
週刊ポスト
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長嶋茂雄氏と王貞治氏 更改時に白紙置かれる特別待遇だった
 プロ野球の世界では契約更改の季節がやってきた。1年の評価が金額で示されるとあって禍根を残すこともしばしば。グラウンドの外にはドロ臭い「年俸交渉」の球史がある。(文中敬称略) 1960年代には長嶋茂雄、王貞治という国民的大スターが誕生し、1970年代まで2人が球界最高年俸の座を占めた。 野村克也は、「王と長嶋は契約更改も特別だった」と語っている。「聞いた話だけど、2人の契約更改では、球団から金額提示しないんだって。白紙を彼らの前に置いて“好きな額を書け”って。王に聞くと、“ノムさん、あれはいい手だよ。非常識な金額書けない”って言うんだよ。人間性を試されるって(笑い)。確かにそうだ。人間には“銭ゲバと思われたくない”という理性があって、それが邪魔してね。思いきって書けないって」 この“特別待遇”は、ON以上にチームメートを悩ませたという。「球団の提示に不満を持った選手がいても、“ONがこの額なんだから、お前はこれでももらいすぎだ”と言われたら反論できない。巨人時代の松井秀喜も一発サインで有名で、“松井さんが渋らないと俺たちは文句を言いにくい”とこぼす選手もいたようです」(スポーツ紙編集委員) 1967年にドラフト10位で巨人に入団し、1971年に新人王を獲得した関本四十四(しとし)も「ONは別格だった」と振り返る。「当時の給料は、茶封筒に入れて手渡しで支払われていた。事務のヨボヨボのおじいさんが、西銀座にある球団事務所から高級風呂敷に包んで運び、ロッカールームで配られる。 ONはこの茶封筒が立つほど厚みがあるんですよ。森(祇晶)さんがその半分ぐらいで、ホリさん(堀内恒夫)がさらに半分。僕の封筒はペラペラで情けなかった(苦笑)」 契約更改の待遇も大違いだったという。「二軍の選手は、全員でバスを借りて球団事務所まで向かいました。すると、クビになった選手も一緒にバスに乗って帰らないといけない。来年も残れる選手は契約書の控えが入った茶封筒を持ち、残れない選手は手ぶら。残酷でした。 一軍になれば個々に球団事務所に行って、契約書にハンコをついた。ですが、スーツにネクタイを結ぶ慣れない服装だけで緊張するし、豪華な交渉部屋の雰囲気に飲まれ、何も言えずにハンコをつく選手ばかりでした。年1回の機会なので、待遇や環境のことも要求しようと気負って乗り込むんですが、話したいことの10分の1も言えずに帰りましたね」(関本)※週刊ポスト2019年12月6日号
2019.11.26 16:00
週刊ポスト
沢村賞該当者なし、金田正一氏が語った「先発完投」への思い
沢村賞該当者なし、金田正一氏が語った「先発完投」への思い
 プロ野球で、そのシーズンに最も活躍した先発完投型の投手に贈られる「沢村賞」が、19年ぶりに「該当者なし」と決まった。セットアッパー、クローザーなど投手の“分業制”が進んだ結果ともいえるが、前人未到の400勝、そして365完投という記録を残し、10月6日に86歳で亡くなった金田正一氏は生前、週刊ポスト記者にそうした潮流への危惧、そして自身の「先発完投」への思いを語っていた。 10月21日に開かれた沢村賞の選考会後、堀内恒夫・選考委員長は「賞のレベルをこれ以上、下げたくない。完投しなくてもいいとなると、沢村さんの名前に傷をつけてしまう」と見送りの理由を説明した。 今回、最終候補に残ったのは各リーグで最多勝に輝いた巨人・山口俊(15勝、防御率2.91)と日本ハム・有原航平(15勝、防御率2.46)。選考基準7項目のうち、勝利数、奪三振など4項目はクリアしたが、投球回数や完投数など3項目で基準に到達しなかった。「分業制が進むなど、野球のシステムが変わって先発完投がほとんどなくなった」と堀内委員長が評した通り、山口は完投ゼロ、有原は1試合だけだった。 国鉄、巨人で活躍した400勝投手の故・金田正一氏は沢村賞に3度輝いたが、生前、記者にこう語っていた。「今の若い選手はどんな目標を持って野球をしとるんじゃろうな。投手として憧れのプロに入れたのならば、まずは先発完投を目指すと思うがな。若い頃のワシはスタルヒン(元巨人ほか)のシーズン38完投(1939年)を目指していたよ」 実際、金田氏はプロ6年目の1955年にシーズン34完投の記録を残している。「ワシの頭には『交代』の文字はなかった。監督がマウンドに来ると“何しに来たんじゃ!”と追い返した。今の選手は交代を告げられると喜んで帰っていく。勝ち星より防御率を気にする選手がいるが、何のために投げているのかと思う。防御率が悪くても勝てばいい。どんなに防御率がよくても負けたら意味がない。ピッチャーは勝ち星を挙げるために投げているということがわかっていない。同点で降板するピッチャーの気持ちが分からんよ」 この話を聞いたのは昨年のオフだったが、そんな金田氏のお眼鏡にかなうピッチャーを聞くと、こう続けるのだった。「うーん、最近は記録どころか、記憶にも残らない選手ばかりだからな。諸悪の根源は、先発、中継ぎ、抑えと分業制が確立されたことに尽きる。なぜワシが400勝できたかというと、後ろのピッチャーなんて信用しなかったからじゃよ。 それでもあえて今の球界で最もワシに近い存在を挙げるなら、分業制の中で先発完投を増やしている巨人の菅野智之かな(2018年シーズンは15勝8敗、10完投で沢村賞)。最後まで誰にもマウンドを譲らんという気概を感じるのよ。技術面でいえば、左バッターの外角からストライクゾーンに入るスライダー。あれに手を出せるバッターはそうそうおらん。狙ったところに投げる能力は、ワシより上だと思うことすらあるよ。 ただ、菅野はコントロールを駆使して抑えるが、ワシの場合はど真ん中に投げたって打たれなかった。水面に投げた石がぽんぽん跳ねるようなイメージで、空気を滑って伸びたからな。ど真ん中に投げたストレートが高めにググーッとホップして、5センチ外れたボールだといわれて、審判と大喧嘩になって退場をくらったこともあった」◆リリーフ投手と「名球会」 そして、「あんな球を投げられるピッチャーは二度と出てこんよ」と豪快に笑って話にオチをつけるのだった。 他にも金田氏は「あの試合に完投していたら歴史が変わっていた」と、こんなエピソードを披露してくれたことがある。「ワシも晩年は力が衰えていた。そのため(1969年に)399勝になった時点で、(監督の)川上(哲治)さんから“リードしている試合は4回で先発は降板し、そのあとは金田がリリーフのマウンドに行く”と通達されていた。これで城之内(邦雄)をリリーフして400勝を達成した。だが、そのあとで401勝になりそうになったことがあった。ワシが勝ち投手の権利がある状態でマウンドを降り、宮田(征典)がリリーフに出て行って負けた。それで400勝で終わった。やはり他人は信じてはいけないのよ」 金田氏は「先発完投」の極意をこんなふうに表現していた。「ワシはランナーが出るまで真剣に投げたことがない。疲れるからな。球種もカーブとストレートしか投げなかった。だからサインもワシがキャッチャーに出していた。ワシが口を開けばカーブ、閉じたらストレートだったかな。省エネ野球だよ。 風も利用した。キャッチャー方向から風が吹くアゲンストの中で投げると、変化球の曲がりが大きくてバッターは全く打てなかった。アゲンストでないと球の回転がいかされない。ワシは球の回転で投げるタイプだ。だからアゲンストの日は打たれる気がしなかった。ドーム野球ではわからない感覚だと思う」 金田氏が、長嶋茂雄氏、王貞治氏とともに1978年に創設した名球会だが、当初の入会条件は「投手なら200勝、打者なら2000本安打」だった。これが投手分業制の登場を受け、2003年に条件が変わった。「250セーブ」が加わったのだ。「『250セーブ』も入会条件に付け加えたが、長嶋が大反対した。時代に合った数字ということで認めたが、やはり長嶋の考えが正しかった。佐々木(主浩)のように日米で活躍することで記憶に残る選手もいるが、やはり勝ち星と先発完投が投手としての勲章。打者も数字だけでなく記憶に残る選手を目指さないといけない。多くのスポーツが台頭しているだけに、プロ野球全体が取り組まなければいけないことだ」 そうプロ野球の将来を危惧していた。今季の「沢村賞『該当者なし』」の一報を金田氏が聞いていたら、どう嘆いていただろうか。
2019.10.30 07:00
NEWSポストセブン
愛弟子が大役を果たした
恩師・金田正一さんに捧げた 村田兆治氏の「弔辞」独占掲載
 史上唯一の400勝投手にして、本誌・週刊ポストの「誌上総監督」だった金田正一氏が、86歳で亡くなった。その葬儀・告別式で弔辞を読み上げたのは、週刊ポスト記事で“指名”を受けていた愛弟子だった──。 台風19号が東日本を直撃した10月12日に営まれた金田氏の通夜には、近親者に加え、週刊ポスト記者を含む友人・関係者20人ほどが参列。翌日の葬儀・告別式には、張本勲氏、堀内恒夫氏、谷沢健一氏、桑田真澄氏ら約200人が姿を見せた。ソフトバンク球団会長を務める王貞治氏は、同日にCSの西武戦があったため、早朝にお別れに訪れた。 そうしたなかで弔辞を読んだのが、ロッテ時代の教え子の村田兆治氏だった。この人選は、週刊ポスト特集〈葬式ではあの人に弔辞を読んでほしい〉(2018年5月4・11日号)で、金田氏が“指名”していたものだ。◆お前、いいピッチャーになるぞ 記事のなかで金田氏は、V9巨人の“同僚”であるON(王貞治、長嶋茂雄)よりも、〈監督時代にすべてをぶつけた村田兆治だよ。ワシのもとで兆治のマサカリ投法が完成し、日本一にもなった〉と語っていた。 取材時、金田氏は“兆治が弔辞。面白い!”と笑いながら話していたが、喪主を務めた長男・賢一氏は、「故人の遺志」として村田氏に依頼したという。 葬儀・告別式の直前には、「ポストのおかげでマウンドに上がるより緊張しているよ」と苦笑いしていた村田氏だが、原稿は用意せず、祭壇の遺影を見つめながら、別れの言葉を切り出した。「私が座右の銘にしている“人生先発完投”。それを実践できているのは、金田さんに育ててもらったからです。人は誰でも人生という大切なマウンドに立っています。簡単に降板するわけにはいかない。それができるのも、プロ2年目の指宿(いぶすき)キャンプのブルペンで、雲の上の上の金田正一さんから“お前、いいピッチャーになるぞ”という言葉をいただいたから。背中を押されました。金田さんの眼力で私の人生が変わった」 そして、「その金田さんが1年ほど前の記事で“(弔辞を読む時は)風邪引いてこいよ”と書かれていた」と続けた。前述の本誌記事で金田氏は、歌手・春日八郎氏(1991年没)の葬儀で弔辞を読んだ経験を振り返り、〈たまたま風邪を引いていて、途中で鼻をすすったら、有名な作曲家の先生たちが“あの金田が泣いてるぞ”と揃って感動してくれた〉〈兆治がワシの葬式に合わせて、風邪を引いてくれればいいんじゃが〉と結んでいた。村田氏の言葉は、それを受けてのものだ。「でも、今日は泣かない。泣かずに、“マサカリ投法”を完成できたことへの感謝を伝えます。私も文句をたくさん言いましたが、体の柔軟性、自己管理、睡眠など、節制することを金田さんが自分でやってみせて説明してくれた。そうして先発完投できるように成長させていただきました」 師弟として苦楽を共にしたエピソードへ続く。「勝てない時期にこんなこともありました。川崎球場で、4回3分の2という、あと1人で勝利投手の権利となるところで、マウンドにやってきた金田さんが交代しろという。私が、“(続投して)負けたらカネはいらない”と抵抗したら、金田さんは、“勝手にしろ”と投げさせてくれた。それで抑えて勝ち投手になると、金田さんは私を抱きしめながら、“あの後で投げた1球1球、それが一球入魂ということだ。覚えておけ”と。改めて、大切なことを教えてもらいました」 野球界のために尽力した金田氏の功績へと話は移る。「イベントを立ち上げ、小さな子供を抱き上げ、野球を通して育てていく。記録だけでなく、いろんなことを残してくれました。それを次の世代に伝えることが恩返しだと思っています。 金田さんが400勝しています。(実弟の)留広さんや(おいの)金石(昭人)さんも含めて金田一族で600勝。これを1000勝にしてもらいたい。一族に遺志を継げる野球少年がいるなら、私が金田さんから受けた教えを、愛情を持って伝えたいと思っています」 そして、こう結んだ。「金田さん、私はすぐにはそちらに参りません。でもそのうち行くことになると思います。その時は“兆治来たか”と迎えてください」◆口は悪いが、嘘はつかない 葬儀の後、改めて村田氏に胸中を聞いた。生前の“指名”については、「急なことで風邪も引けなかったね」と苦笑しながら、「光栄なことですよ」と続ける。「金田さんは、口は悪いが嘘をつかない。怒鳴るけど、フォローを忘れない。だから信用できる人だった。その金田さんから理解されていたと思うと嬉しかった。でも、こんなに早く別れがやってくるとはね……」 離島での少年野球教室がライフワークの村田氏は、「野球を通じた人材育成をやってきたのが金田さん。それを引き継いでいくつもりです」と語った。“カネやん”の志は、脈々と受け継がれていく。●写真提供/カネダ企画※週刊ポスト2019年11月1日号
2019.10.22 11:00
週刊ポスト
広島4位を予想するのがもっとも難しかったようだ(写真:時事通信フォト)
セ・リーグ順位予想「4位・広島」的中は評論家75人中2人
 両リーグともに全日程が終了し、ポストシーズンを控えるのみになったプロ野球。シーズン前、評論家が行なった順位予想は当たっていたのか。データ分析家の岡野誠氏が、スポーツ新聞6紙(東京版)とフジテレビCS『プロ野球ニュース』の評論家75人のセ・リーグ順位予想を答え合わせしながら、徹底解析する。【*1:敬称略 *2:評論家名後のカッコ内は現役時代のセ・リーグ最長実働球団(パ・リーグのみ在籍の場合はパ球団名を記載) *3:スポーツ紙と『プロ野球ニュース』の2つに出演した評論家で順位を入れ替えている場合は最新の日付を優先 *4:川上憲伸氏は3月27日の東京中日スポーツと28日の『報道ステーション』で順位を入れ替えているため、後者を優先】 * * * まず、開幕前の評論家75人の平均予想順位と優勝予想を見てみよう。【セ・リーグ各球団の平均予想順位】巨人:1.79位 /広島:1.83位/DeNA:3.64位/ヤクルト:3.77位/阪神:4.51位/中日:5.47位【セ・リーグ各球団の優勝予想人数】巨人:38人(50.7%)/広島:26人(34.7%)/DeNA:6人(8.0%)/阪神:3人(4.0%)/ヤクルト:2人(2.7%)/中日:0人(0%) 巨人と広島が優勝を争い、DeNAとヤクルトがAクラスを競り合い、阪神と中日は下位に沈む――これが、大方の予想だった。結果は以下のようになった。【今季のセ・リーグ順位(的中人数/的中確率)】1位・巨人(38/50.7%)2位・DeNA(7/9.3%)3位・阪神(11/14.7%)4位・広島(2/2.8%)5位・中日(15/20%)6位・ヤクルト(6/8%) 評論家75人中38人と半数以上が巨人の優勝を当てた。一方で、最も難しかったのが広島の4位で、わずか2人しか正解者はいなかった。昨季2位のヤクルトを最下位予想したのも、6人のみ。順位予想の困難さを感じさせる結果となった。 しかし、よく見ると、ある傾向が浮かび上がってくる。4位・広島の的中者は狩野恵輔(阪神)、彦野利勝(中日)。6位・ヤクルトの的中者は山田久志(阪急)、和田一浩、川又米利、岩瀬仁紀、立浪和義、今中慎二(以上、中日)になる。 2002年から約2シーズン、中日の監督を務めた山田久志を含めれば、8人中7人が中日在籍経験者で、5人は生え抜きのまま現役を終えた元選手である。なぜ、彼らはこのような予想をできたのか。 順位予想をする場合、評論家は古巣に甘くなりがちな傾向がある。狩野は阪神を1位に、彦野、川又、岩瀬は中日を3位に、立浪、今中は中日を4位に挙げている(生え抜きではない山田と和田は5位予想)。つまり、現役時代の所属球団を他の評論家よりも上に挙げたため、必然的に広島やヤクルトの順位を下げざるを得なかったという見方もできる。 全75人の平均的中率は1.05。ゼロ的中は梨田昌孝(近鉄)、小早川毅彦、安仁屋宗八(ともに広島)など19人。そのうち13人は広島を優勝予想にしていた。狩野と同じく阪神を優勝予想した吉田義男、藤田平(ともに阪神)は1つも当たらなかった。 1つ的中は秋山幸二(西武)、里崎智也(ロッテ)、岩本勉(日本ハム)など34人。ここには張本勲、堀内恒夫、村田真一(いずれも巨人)など古巣を優勝に推した巨人OB9人が入っている。 2つ的中は野村克也(南海)、桑田真澄(巨人)、佐々木主浩(横浜)など21人。ここには前述の和田一浩、川又米利、彦野利勝、狩野恵輔も含まれる。 75人中、最も的中させたのは山田久志の3つ。予想は1位・巨人、2位・広島、3位・DeNA、4位・阪神、5位・中日、6位・ヤクルトで、1位、5位、6位を当てた格好だ。シーズン終盤の残り数試合まで2~4位は流動的だったため、全的中の可能性もあった。監督を務めた中日に私情を無理に挟まなかったことも、的中率の高さに繋がったのかもしれない。●文/岡野誠:ライター・データ分析家・芸能研究家。研究分野は松木安太郎、生島ヒロシ、プロ野球選手名鑑など。著書『田原俊彦論 芸能界アイドル戦記1979-2018』(青弓社)が話題に。同書は『ザ・ベストテン』(TBS系)の詳細データや田原俊彦の1982年、1988年の全出演番組を視聴率やテレビ欄の文言などとともに記載しており、巻末資料を読むだけでも1980年代の芸能界が甦る。
2019.10.05 07:00
NEWSポストセブン
プロでの活躍が楽しみな佐々木と奥川(撮影/藤岡雅樹)
奥川・佐々木はどうなる? 超高校級投手のプロ入り後の明暗
 今年のドラフトの目玉として注目を浴びる星稜・奥川恭伸投手と大船渡・佐々木朗希投手。こうした高校野球でのライバル関係は、「田中将大と斎藤佑樹」のようにその後プロでも続き、大きく明暗を分かつこともある。1964年夏の準優勝投手・池永正明(下関商)とセンバツ優勝投手・尾崎将司(徳島海南)は翌年、西鉄に揃って入団した。当時は鉄腕・稲尾和久を擁する全盛期だった。「池永は1年目から20勝を挙げて新人王、1967年には23勝14敗で最多勝に輝いた。その活躍を見た尾崎が“あんな凄い奴がいたら俺は成功できない”とゴルフに転身した。しかし尾崎がプロテストに合格した1970年に、池永は『黒い霧事件(※)』でプロ野球界を去ることになってしまいました」(ベテラン記者)【※/1969年に発覚した一連の八百長事件。池永をはじめ多数の永久追放者を出した。池永はその後、球界への復権を希望し、2005年に永久追放処分が解除された】 1965年秋の初ドラフトでは、巨人が堀内恒夫(甲府商)、近鉄が鈴木啓示(育英)を獲得した。「堀内は1年生の夏に甲子園でリリーフ登板するも、3年時は県予選決勝で敗退。鈴木も3年のセンバツで初戦敗退し、夏は出場できなかった。両者とも甲子園より、プロに入って輝いた。堀内は1年目に16勝2敗で新人王、最優秀防御率、沢村賞を獲得。鈴木も5年連続で20勝をマークするなどセ・パを代表するエースになった」(元デイリースポーツ編集局長・平井隆司氏) 大きく明暗が分かれたのが、1974年夏の優勝投手・土屋正勝(銚子商)と、同大会の準決勝で敗退した定岡正二(鹿児島実業)だ。 土屋は前年の夏の甲子園で2年生エースとして江川卓(作新学院)と対戦、延長12回を投げ勝ったこともあって最注目投手だったが、中日入団後は11年間でわずか8勝。一方、巨人入りした定岡は江川、西本聖と並ぶ3本柱として活躍した。「土屋は“江川に勝った男”として名が知れわたり、2年秋から3年夏にかけて全国から招待試合の申し込みが殺到。投げすぎで入団前から肘や肩はボロボロになっていたようだ」(ベテラン記者)◆荒木大輔の抽選を外した巨人は斎藤雅樹を獲得 1981年の注目株は、同じ愛知県のライバル、槙原寛己(大府)と工藤公康(愛工大名電)だった。2人は愛知県代表の座を奪い合い、春は槙原の大府、夏は工藤の名電に軍配が上がった。 工藤は夏の初戦でノーヒットノーランを達成するも、準決勝で報徳に敗れた。槙原はセンバツで金村明義擁する報徳学園を下した。 槙原は地元の中日か、ファンだった巨人以外なら社会人に行くと宣言。工藤は社会人の熊谷組に内定しており、指名が見送られると思われていた。「ドラフト会議当日、巨人が槙原を単独1位指名すると会場がどっと沸きましたが、それ以上にどよめいたのが、西武が工藤を6位指名した時でした。監督から管理部長としてフロント入りした根本陸夫さんの“根本マジック”が炸裂し、“球界の寝業師”と呼ばれる所以となった」(同前)  翌1982年の夏は、5季連続で甲子園出場を果たした“大ちゃん”こと荒木大輔(早実)が甲子園のアイドルとして注目を集めた。 その荒木を“やまびこ打線”の池田が準々決勝で下し、深紅の優勝旗を持ち帰る。池田のエースだった畠山準を南海が単独指名。荒木は巨人との競合の末、ヤクルトが引き当てた。「畠山は投手として4年間で6勝し、外野手に転向。荒木もプロ10年で39勝49敗2セーブに終わりました。 荒木の抽選を外した巨人がハズレ1位で指名したのが、甲子園出場経験のない斎藤雅樹(市立川口)だった。それが巨人のエースとして通算180勝をあげたのですから、運命はわからない」(前出・平井氏)撮影/藤岡雅樹※週刊ポスト2019年9月13日号
2019.09.05 07:00
週刊ポスト

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